教祖様の鳥籠

 舞踏会の会場を思わせるような広大で装飾的なホールには、多数の人間がひしめき合っていた。
 性別も年齢も装いも様々。その全員が、花緑青のラインが入った輪袈裟のような白い布を首にかけて、各々膝の上に小さな本を広げ、熱の籠もった目で壇上を見つめている。
 彼らの視線の先にいるのは、白と花緑青の長衣に身を包んだ長身の男。どう見ても成人から数年経っていないであろう若者がおちついた口調で朗々と紡ぐ言葉に、ホール中の人々が聞き入っていた。
 新興宗教『七星救心会』の本部で行われる、日曜礼拝。教祖・七星御兎を見上げる信者達を、柳島慎一は舞台脇の司会台から温度のない目で観察していた。
 ……よくもまあこの人数が毎週律儀に集まってくるものだ、と柳島は心の中で呟く。ただでさえ千羽市の中心部から車で一時間かかる立地だというのに、県外から熱心に通い詰めている信者までいる。特定の宗教に入信することを厭う人間が増えてきた中で、この熱量は驚異的だ。大司教の柳島を始めとする信者達の地道な布教活動の成果もあるが、何よりも信者の心を掴んで離さない七星御兎のカリスマ性が凄まじい。七星救心会の信者数は、設立当時とは比べ物にならない程に増加している。
 いつもよりは若年層の割合が高い原因について柳島が思いを馳せていると、どこかで子供の泣き声がした。客席の中にやや落ち着きのない集団が出現する。速やかに道を開けた群衆の間を、泣きじゃくる子供を抱えた父親が何度も頭を下げながら通過していく。通路まで出た父親に司教服を身に纏った女性が近づいていき、ゆっくりと二人をホールの外へと先導していく。向かう先はホールのすぐ近くにある会議室。じっとしていられない子供とその親も礼拝に参加出来るように、その空間にも映像を繋いで礼拝室として開放しているのだ。
 『弱者が排斥されることのない優しい世界の実現』。誰が指示するまでもなく、教祖の掲げる理想郷が当たり前のこととして実現される。七星御兎はその光景を微笑とともに一瞥し、また説法に戻った。
 七星御兎がそこにいるというだけで信者達は鼓舞され、勝手に理想郷を作りあげていく。信者達の頑張りではどうにも出来ないことは、異才の宗教者である七星御兎がどうにかしてしまう。少なくともそう信じられていて、七星御兎もそれに答えようとする。
 圧倒的な信者数と財政力を誇るこの七星救心会を保たせているのは、よくも悪くも七星御兎一人なのだ。彼が損なわれてしまうこと、失われてしまうことは、たとえ何を犠牲にしても避けなければいけない事態だった。
 柳島が日曜礼拝の進行表と時計を見比べて確認しようとしたその時、舞台袖から一人の礼服姿の男が慌てたようにまろび出てきた。柳島はマイクがオフになっていることを確認して、男を振り返る。
「どうしました、礼拝の最中にそんなに慌てて」
「や、柳島様! その……!」
「まずは落ち着いてください」
 駆けつけてきた彼は、本日の留守番係だったはず。外で何か彼が慌てるような事態が起きたのだろうか。
「ここでは人目がありますし、信者たちを不安にさせてしまいます。奥に行きましょう」
 柳島は七星に視線を向ける。異常事態を察した七星がゆっくりと頷いたのを確認して、柳島は男を舞台裏の通路へと引っ張っていく。
 留守番係が呼吸を落ち着けたのを確認して、柳島は口を開いた。
「それで、何があったんですか?」
 留守番係は不安そうに揺れる瞳で答えた。
「先程、警察の方がお見えになりました。ここの――七星救心会の責任者を出して欲しいと」
「警察? この本部にですか?」
 柳島は思案を巡らせる。警察に踏み入られるような心当たりはないが、わざわざ信者が集まる日に訪問してくるとは穏やかではない。
「いかがいたしましょうか」
「第一応接室にお通ししてください。礼拝が終わり次第、七星と僕とで伺います」
「わかりました、……礼拝中に失礼しました」
「いいえ。留守番係ご苦労さまです」
 柳島は外行き用の微笑みを浮かべて、留守番係を送り出す。彼の背中が角を曲がって消えたと同時に、柳島の微笑みも砂絵のように消えた。
「せめてすぐに終わる類の厄介事だといいんですけどね」
 その希望的観測が当たらないことを予感しながら、柳島は司会台へと戻っていった。

「警察が来るなんていつぶりかなあ」
「……笑ってる場合じゃないぞ御兎。前回だって散々面倒を起こされただろう」
 並び立って歩く七星と柳島に、信者たちが足を止めて合掌礼をする。七星はにこやかに、柳島も外行きの笑顔で応じる。
「そう邪険にするものではないよ。彼らは自分の職務に忠実なんだ。私の教義とは目的が違うけれども、一生懸命なのは悪いことじゃない」
「どこがだ。……これで御兎や七星救心会に何かあったらと思うと気が気ではないぞ」
「慎一。私は大丈夫だよ」
 神々しさすらおぼえる、堂々とした断定。しかし柳島は首を振る。
「残念ながら俺の心配には効かない。そういうのは他の素直な信者にやってやれ」
「遠回しに自虐するのはよくないよ。慎一がいてくれるから、この会は私が一人ひとりに手を差し伸べるよりもずっと沢山の人を救えているんだから」
「……そうやって積み上げてきたものが妙な横槍で崩れなきゃいいがな。ただでさえ新興宗教というだけで色眼鏡で見られるんだ。さっさと終わらせるぞ」
 柳島が第一応接室の扉を開くと、パンツスーツに身を固めた女性がソファーから柳島と七星を見る。立ち上がった彼女の表情の険しさに柳島は内心でため息をつき、名乗りを上げる。
「柳島慎一です。七星救心会の大司教を務めております」
 隣の七星は壇上にいた時と全く変わらない様子で、にこやかに刑事に一礼する。
「七星救心会教祖、七星御兎です」
「代表……? あなたが?」
 表情に険しかなかった刑事が戸惑う。
「何か?」
「あ、いえ……随分若いと思いまして」
 七星は苦笑した。
「よく言われるよ。開祖は私の父親で、教祖としては私は二代目でね」
「そうでしたか……」
 百合川は怪訝そうに頷く。それは七星御兎の肩書が彼女の意の外だったせいでもあり、七星御兎の丁寧な口調から敬語がごっそりと抜けていることへの不審感のせいでもあった。
「……申し遅れました、和泉警察署の百合川です」
 七星と柳島、そして百合川刑事は向かい合って腰掛ける。程なくして先程の留守番係が紅茶を供し、「なにかあればお呼びください」と合掌礼だけして退出していった。
 無表情で留守番係の出ていった扉を睨めつける百合川に、柳島が咳払いをして切り出す。
「それで、本日はどのようなご用件でしょうか」
 百合川ははっとして七星と柳島に向き直った。
「藤原佳奈江さんをご存知でしょうか」
「もちろん。私達の会の信者だね」
 七星が即答する。その答えに柳島の脳内でも顔と名前とプロフィールが一致する。資産家だった両親が急逝したことをきっかけに二年前に入信した三十代の女性。
「今日の礼拝には来ていないようだけれども、もしかして彼女になにかあったのかな」
「自宅で亡くなっているのが発見されました」
 亡くなった、という言葉に柳島と七星は瞠目する。
「わざわざ刑事さんがいらっしゃるということは、穏やかな死に方ではなかったんですね」
「頭部に強く殴られたような痕がありました。我々は殺人の線で捜査しています」
 七星は悲しげに手を合わせた。
「……毎週のように礼拝に来ていてね、信者の中でも特に熱心だったよ。先週も顔を合わせたばかりなのに、まさか亡くなったなんてね」
 少し瞑目して、七星はふぅと息を吐く。
「彼女には親戚や家族がいなかった筈だし……私達で葬儀をしなければならないね。慎一、あとで手配を頼めるかな」
「承知した。場所は彼女の家の近くが良いだろう、支部の講堂はこちらで確保する」
「頼んだよ。ああ、それと」
 百合川がローテーブルをバンと叩く。
「……葬儀の相談は後にしていただいてもよろしいでしょうか」
 七星は不思議そうな顔で刑事を見返す。
「私の教えを信じてくれた人が亡くなったわけだし……彼女の葬式の心配が第一なのはそんなにおかしなことかな」
「捜査に協力することが第一です。貴方達は被害者の無念を晴らしたくはないのですか?」
「死んでしまった人間に私達が出来るのは、善く生きた藤原さんを弔うことだけだよ。残された生者がちゃんと悲しむための手伝いを兼ねて葬儀を上げるのが宗教の役割で、彼女に信じてもらった私の役割だよ」
 ことごとく常識のずれた相手を前にしていることを認識し、百合川は苛立たしげに頭の左側を掻きむしった。深呼吸し、七星を睨みつける。
「はっきり言いましょうか。我々は貴方を疑っています」
「私を?」
 七星の表情は穏やかなまま変わらず、目だけで話の続きを促す。焦れた百合川がさらに苛立ち、やや早口で続けた。
「殺された藤原佳奈江には親から受け継がれた莫大な遺産があった。そして彼女の自宅リビングには遺言書が置いてあった。『自分に万が一のことがあれば資産は全て七星救心会に寄付する』とね。……参考人として、署までご同行願います」
 百合川刑事の言わんとすることを察して、柳島が呆れたようにため息をついた。
「つまり、七星が金欲しさに信者殺しを指示した、あるいは自ら手を下した、と。……いかにも教祖の顔も知らずに突撃してきた猪刑事が考えそうな筋書きですね」
「なんだと」
「証拠は? アリバイの確認は? 全てを飛ばしてただ『怪しいから』と印象だけで人を連れて行くのが警察の仕事ですか」
「慎一。そのあたりで」
 つかみ合いになりそうな距離で睨み合っていた二人が、双方苦々しげに表情を歪めてゆっくりと離れる。
「……申し訳ございません。七星が疑われたことに動転して、つい頭に血が登ってしまいました」
 慇懃に謝罪する柳島に、百合川は鼻を鳴らした。
「会ぐるみの犯行を疑う百合川刑事に先に言っておきますが、七星救心会の財政は健全そのものですよ。信者達の喜捨や各事業の売上で、普段の活動費は問題なく賄えています。教義と一般社会の倫理に反する資金繰りが必要になるくらいなら、そんな宗教組織は潰れた方がいいんです」
「そんなの口ではなんとでも言えるでしょう。……それに、柳島さんの主張では大金に目がくらんだ個人の犯行を否定出来ません」
「彼女の資産を狙う個人なんて、銀行員から物盗りまでよりどりみどりでしょうに。どうしても七星救心会の人間の仕業にしたいようですね」
 慇懃に答えながら、柳島は思案を巡らせる。
 御兎が藤原佳奈江の死に関わっていることはありえない。捻くれている柳島とは違い、七星御兎は教祖として真剣に信者の幸せのため尽力しているのだ。殺人は、馬鹿みたいに人を救うことばかり考えている彼の存在に反する。
 しかし、今日この本部に集まった信者達の中に殺人者がいる可能性は否定しきれない。もしも百合川刑事の疑惑が現実のものとなった場合、ただでさえ新興宗教として白眼視されている七星救心会には、確実にダメージが入る。
 そうなった場合、一番傷つくのは七星御兎だ。教祖として真剣に信者の幸せのため尽力している七星は、自分では考えもしなかった罪で、自らの存在を会と切って離すことが出来ないというだけでダメージを負う。
 七星御兎、及び七星救心会が殺人と結びつくような疑いは、なんとしても晴らさなければならない。
「……犯人がどこにいるのか、それをはっきりさせないといけないね」
 しばらく沈黙していた七星が静かな声で言う。
「信者たちと引き剥がされて警察署に連れて行かれてしまうのは困るけれども、取り調べならここで応じるよ。確かただの事情聴取なら、それでもいいんだったよね」
「問題はありませんが、捜査本部の心証は確実に悪くなりますよ」
「そうかな。刑事さん達は、藤原さんを殺したのかもしれない人と団体、犯人を見たかもしれない人全員に話を聞かなければならないんだよね」
「ええ、そうです」
「それなら、今日ここに集まっている藤原さんの関係者全員にも話を聞けるように協力するよ。その方が私だけを連れて行くよりも、刑事さんにとって楽なんじゃないかな」
「一理ありますが……」
 七星が横に振り向く。
「慎一もそれで大丈夫かな」
「勿論だ。今は昼食会中で、ほとんどの信者は本部の中に残っている。足止めは簡単だ」
 考えあぐねていた百合川が、重い口を開く。
「わかりました。この部屋か適当な会議室を、取り調べのために用意して頂けますか」
「決まりだね。刑事さんが必要だと思ったら、私達は出来る限りの手伝いをするよ」
「……ただし、僕達にとってここは祈りの場。必要以上に騒いで信者に心労をかけることのないようお願いいたします」
 百合川はふんと鼻を鳴らした。

「藤原さんがそんなことになってたなんて……今日はいらっしゃってないからどうしたのかしらと思ってたんですけど、まさかねぇ……」
 藤原佳奈江と一番仲のよかった上谷という女性は、顔面蒼白でうつむいた。
 百合川は彼女が落ち着くのを黙って待ちながら、同席している七星をさりげなく睨めつけた。
 知らない相手と強制的に二人きりにされるのは聴取される側にとっても怖いだろうとの七星の配慮。重要参考人である七星を目の届くところで監視し続けたいという刑事の要望。その二つがぎりぎりのところで噛み合い、聴取はこのように変則的な形となっていた。ともすれば取調室のような硬い雰囲気になりそうな第一応接室の空気は、穏やかな表情で泰然としている七星の存在で、奇妙に中和されていた。
「上谷さん、貴方が藤原さんと最後に会ったのはいつですか」
「先週の木曜日……です。私の支部は、いつもその日に寄合いがあるので」
「その時、何を話しましたか」
「……いつもと変わらなかったです。私は夫の話をして、彼女は並川さんの話をして……」
「失礼。並川さん、というのは?」
 紅茶を運んできた柳島が質問する。七星と柳島以外の立ち入りは百合川刑事が嫌がったため、手隙の柳島が給仕を買って出たのだった。
「並川さんは、彼女が付き合ってた人です。私は会ったことがないですけれども、きっと彼もショックでしょうね……」
「我々の捜査線上にもすでに上がっています」
「なるほど。話の腰を折ってしまい申し訳ありません、続けてください」
 ティーカップを並べ終え、柳島は壁際に下がる。
「最近、何かに悩んでいる様子はありましたか」
「いえ、いつもどおりに……見えました……」
 待つだけなのも時間の無駄と判断した柳島は、持ち込んだタブレットPCを起動する。中に入っているのは電子化された七星救心会関係のデータ一式。記録されているのは手書きの誓約書から司教と信者の面談記録まで、ほぼ全ての資料。亡くなった信者・藤原佳奈江のデータも、当然閲覧可能だ。
 藤原佳奈江。享年三四歳。二十代半ばから引きこもっており、面倒を見ていた両親は四年前に事故で他界。天涯孤独の身となった彼女は、七星救心会が主催した市民イベントに参加したことがきっかけで入信。以来、週一回の礼拝を始めとして熱心に会の活動に参加していた。
 藤原佳奈江の活動記録を見た柳島はため息をつく。これでは七星救心会以外での人間関係はひどく希薄だっただろう。教祖か信者の誰かが犯人だと百合川刑事が疑うのも無理はない。
「それでは。藤原さんが殺された時、貴方はどちらに?」
「……わ、私を疑っているんですか!?」
「聴取した方全員に聞いています」
「そ、そうやって! 私を騙そうとしているんでしょう!?」
 突然ヒステリックに叫び始めた上谷に、百合川は気圧されたように身を引く。
「いつもいつも! 私だけなんです、嘘つかれて割を食うのは!」
「落ち着いてください上谷さん、私は」
「姉も友達もお義母様も、みんなみんな……! 全員大好きだった、全員信じてた、なのに全部裏切られて!」
 上谷の手が卓上のカップに伸びる。熱い紅茶の入ったカップに触れる直前、七星の手が彼女の手首を掴んだ。
「上谷さん」
 その声に、乱暴に自分の邪魔をする何かを振りほどこうとした上谷が、ぴたりと動きを止める。
「あ……やだ、私、そんなつもりじゃ、」
「ゆっくり呼吸をして。……そう、ゆっくり。この手を、私と一緒に膝の上に戻せるね?」
 七星に促されて、女性がゆるゆると落ち着きを取り戻していく。
「大丈夫。怖かっただろうに、君はこの場から逃げ出さないでちゃんと試練に向き合っている。上谷さんは立派だよ。それでも怖くても大丈夫、私が一緒にいるからね」
「……ごめんなさい、七星様の目の前だというのに、私、こんなんで」
「温かいものを飲むと落ち着くよ。上谷さんが思いとどまってくれたから、紅茶は正しい形で上谷さんを助けてくれる。慎一は紅茶を淹れるのが上手いから、きっと美味しいよ」
 促されるまま、上谷は紅茶を一口飲み、少し瞑目して百合川刑事に向き直った。
「……不安にさせてしまったところ恐縮ですが、どうしても聞かなければならないのでご理解ください。藤原さんの亡くなった木曜の夜、どちらにいましたか」
「その日の夜は家にいて一人でゆっくりしていました。……寝る前に夫と会ったかしら、でもそれ以外は一人、です」
「ありがとうございます」
 有効な情報を得られず、百合川は苛立たしげに手元の資料を指で叩く。
 七星が口を開いた。
「会の外では、藤原さんとの交流はありましたか?」
「……いいえ、ありませんでした。彼女と一緒に会うのはいつも支部だけで」
「互いの家を訪問したり、手紙のやり取りなどは?」
「何度かお誘いしたのですけれども、藤原さんすごく遠慮してらっしゃったから、最近は全然……。お手紙もいつもMINEでのやり取りでしたし……」
 百合川が虚をつかれたように固まる。住所を知らない相手を自宅で殺せるわけがないし、教えてもいない住所に突撃してきた知り合いを家主が家に上げる可能性は低い。
「……なるほど。ありがとうございます」
 百合川はそういったきり、考え込んでしまう。
 一番仲のよかった相手ですらこれだ。七星救心会の知己による犯行の線は、これで非常に低くなった。
 しかし、まだ油断は出来ない。彼女に信頼されていて、住所を知っていて、動機があって。――もしも犯人だった場合、七星救心会に大ダメージを与えるであろう相手が、まだ残っている。

「ええ、彼女からはよく相談を受けていました」
 簡素な装飾の礼服を纏った男は、神経質そうに百合川と柳島を見比べた。
 佐藤司祭。役職持ちの信者の中では特に藤原佳奈江に親しく、尚且つ彼女の住まいを知ることの出来た人間。
 司祭階級は役職持ちの中でも下から二番目、小さな集まりの主催が許される程度の役職。しかし司祭権限で閲覧出来る信者のデータの中には、藤原佳奈江が入信時に記載した書類と、そこに記載された住所も含まれている。
「活動拠点としている支部は被っていなかったはずですよね」
「そうですが……それが何か? 相談はいつも日曜礼拝の費に本部で承ってましたし、会の規約では特に相談役の制限はないはずですよ」
 挑戦的に睨みつけながら言う佐藤に、柳島は鷹揚に頷いた。
「ええ、貴方の認識通りです。他にも支部を超えて信頼関係のある方々はたくさんいらっしゃいます」
「なら、」
「いえね、一つ不思議だなと思うことがありまして」
 柳島がタブレットを操作する。
「月イチの頻度で行われていたはずの面談。二ヶ月前を最後にぱったりと途切れているのですよね」
「それは……たまたまですよ、互いの予定が合わなくて」
「日曜礼拝という全信者が予定をあけて集う筈の日に、一年近く面談を行い続けた二人の予定が合わなくなる? 自分の発言の矛盾にはもう少し敏感になった方がいいですよ」
 佐藤司祭が絶句し、目が激しく泳ぐ。
 百合川が身を前に乗り出そうとしたのを、柳島は片手で制して口を開いた。
「佐藤文景」
「……はい」
「役職持ちになったばかりの貴方を指導したのは誰ですか?」
「柳島様……です」
「貴方は僕の教え通りに司祭として正しいことを成そうとしたのですか?」
「はい。でも――」
「であれば堂々と、貴方の胸にある真実を語りなさい」
「……わかりました」
 佐藤司祭は言葉を慎重に選びながら、重たい口を開く。
「彼女が――藤原さんがある程度の資産を持っているということは知っていました。だから、ゆっくり信頼を得て、彼女が多額の寄付をするように誘導するつもりでした」
「成程。それが貴方の思う通りに行かなかったのですね。理由をお伺いしても?」
「……夏の役職会議までに寄付を貰おうと焦ってしまって。多分その時に、資産だけが狙いで自分のことはどうでもいいんじゃないかと、そう思われてしまったんだと思います。藤原さんとは、それきりです」
 百合川は釈然としない様子で口を挟む。
「あの、一つわからないのですが。彼女の寄付を呼びかけることにが、どうして役職会議に関係するんですか?」
「それは……」
 佐藤司祭が上目遣いで柳島を見る。柳島は大きくため息をついた。
「役職の昇降級は様々な要素を総合的に判断決定するんです」
「――そういうことか!?」
「理想郷の実現には先立つものが必要なんですよ。これ以上は言いませんが」
 百合川は大司教服を纏った柳島を上から下まで見る。
「刑事さん、何か失礼なことを考えていませんか?」
 百合川がわざとらしく咳払いをした。
「……役職会議との関係は納得しました」
 メモを取った百合川が、パタンと手帳をたたむ。
「アリバイや藤原さんとの関係については一通り聞かせてもらったので、私からは以上です」
 百合川の表情にはどこかほっとしたところがあった。佐藤司教のアリバイはなく、藤原からの信頼失墜とそれに伴う利益を取り逃がしたという動機もある。
「僕を信頼して打ち明けてくださり、ありがとうございます。……最後に一つだけ良いでしょうか」
「なんでしょうか」
「藤原さんとの信頼関係構築に失敗した後、貴方は一体どのような活動をしてきましたか?」
「活動記録を見ればわかりますよ」
 少し生意気な調子を取り戻した佐藤に促されるまま、柳島は彼の面談記録を開き――破顔した。
「成程。……これは藤原さんの面談記録を確認するだけではわかりませんでしたね」
 佐藤の面談記録には、千羽市有数の資産家の名前があった。
「感触は?」
「悪くありません。……ただ、今度は他にも種を蒔いて、一人失敗しても次があるようにしておこうと思います」
「素晴らしい、これはこの先も期待できそうだ。……近い将来、司教服を着た貴方の姿を見ることを楽しみにしていますよ」
「近い将来とは随分舐められたものですね。……冬には昇格してみせますよ」
 佐藤司教は、野心的な笑みを見せた。

「やはり佐藤文景が一番疑わしいですね」
 藤原佳奈江の関係者数名への聴取が一段落し、第一応接室では七星、柳島、百合川の三人が紅茶と茶菓子をつまんでいた。
「アリバイがなく、住所を知っていて、藤原佳奈江からも一応信頼されていた。おまけに動機だってあります」
「僕は違うと思いますけれどもね。説得が失敗したことが動機だというにしては、時期が空きすぎてます」
「では他に一体だれが犯行に及べると?」
 ギスギスと言い合う二人の間に、七星がマイペースに割って入る。
「刑事さんはどうしても七星救心会の中に犯人がいて欲しいと思っているのかな」
「藤原佳奈江と関係の深かった団体を疑うのは当然です」
 百合川はぴしゃりと言い放つ。
「私達はこの先も刑事さんには出来る限り協力するつもりだけれども、それでも刑事さんの印象は変わらないかな」
「あんな身内に促された証言、どれほど信用できたものか怪しいものです」
「酷いことを言いますね。新興宗教の関係者であれば怪しいに違いないと決めつけてかかる猪刑事のフォローに半日奔走したというのに」
「その呼び方を今すぐやめろ!」
 二人のやり取りを愉快そうに眺める七星を、百合川が忌々しげに睨む。
「全く……警察の捜査の周りを部外者がうろちょろする事そのものが異常事態だぞ」
「この間見たドラマだと、警察じゃない人が一生懸命刑事さんと事件の捜査をしていたけれども、あれは違うのかい?」
「あんなのフィクションに決まってますよ。……全く、創作と現実の違いくらい、小学生でも知っている常識ですよ」
「そうなのかい? 私は小学生だったことがないけど、みんなはその年頃から知ってるんだね」
「……は?」
 百合川の表情がわかりやすく引き攣る。
「いやいや、小学生だったことがないって……義務教育の一番最初ですよ?」
「うん、まあ普通はそうらしいんだけど――私は今まで学生だったことが一度もないんだよ」
「そういえば百合川刑事は、この宗教のことを全く知らずに来たのでしたね」
 柳島が眼鏡の両端を持って上げる。
「七星救心会の初代教祖……つまりは御兎の父親がこの宗教を始めた時、一体何を神と崇めたと思います?」
「……まさか」
「そう。他の子供よりも少しばかり聡明だった、自分の息子ですよ」
「そんな!」
 百合川が叫ぶが、二人は表情すら変えない。それは何度も同じ事を語り、何度も同じ反応を返された人間の顔だった。
「子供の人生を全部信仰のために犠牲にするなんて、そんなの人間の所業としてあっていいはずが!」
「宗教としては別に斬新ではない風習ですし、子役や運動選手として育てられている子供と構造は同じですよ。程度の差はありますけれどもね」
「同じなわけがないでしょう! そもそも現代日本でそんなことがまかり通るはずが……!」
「まかり通ったんですよ。当時の信者だった現世利益目的のお偉方が、その節は随分ご活躍されたそうで」
 柳島は心底嫌そうに、皮肉げに事実を述べる。
「生きた神そのものとされて、清められた特別な家以外で過ごすことを許されず、七星救心会が必要とした時だけ引っ張り出される。それが御兎の普通でした」
「私もそれが当たり前だったから、慎一が初めて聖所に転がり込んできた時にはびっくりしたな」
「驚いたのはこっちですよ。親に連れられた礼拝で遠目に見るだけだった神様が、目の前にぽんと現れたんですから」
「……柳島さんも?」
「ええ。いわゆる二世信者というやつですね。今は自分の選択でここにいますが」
「そうでしたか……」
 それきり黙り込んでしまった百合川に、七星が微笑む。
「刑事さんは真っ直ぐだね。おかしいと思うことを前にして、決して逃げたり誤魔化したりしないすごい人だ」
「……そんな立派なものではないですよ。ただの私の意地です」
「それがきっと人間らしいということだよ。万能でもないし賢くもないし自分のことで手一杯だけれども、それでも善く在ろうとするのが人間だよ。刑事さんとは方法が違うけれども、私達が目指すところも同じだね」
 ほら食べて、と促されて、百合川が小さなチョコレートを口にしてため息をつく。
「今は、貴方たち二人が実権を握っているんでしょう」
「ええ。先代教祖と七星救心会の関わりは、今はありません」
「逃げることは考えなかったんですか」
 七星が困ったように笑う。
「私が教祖になった時に、神様は辞めさせてもらったけれどもね。そんな私の言うことを信じて救われて幸せになれるっていう信者たちが、思ったよりもたくさんいたから」
 柳島が楽しそうに笑う。
「僕は現実的な利益のために考え直しました。……二〇歳そこそこの若者が構成員二万人超の組織で金と人を動かせる、しかもトップの指名を受けて幹部からスタート出来るなんて、棒にふるほうがおかしいくらいの高待遇ではありませんか?」
「何度聞いても慎一らしいなあ」
「わかりやすくていいでしょう。……僕達は世界の残酷さを身を以て知っている。だからこそ僕達は社会的弱者と身を寄せ合い、祈り、行動を起こす生き方を選んだんです」
 柳島は少しぬるくなってしまった紅茶を一息に飲み干した。
「それで刑事さん、休憩が終わったあとも、まだ調査を続けたいと思っているのかな?」
「あ、はい……容疑者こそ固まりませんでしたが、親しかった人たちへのアリバイ確認と聞き込みは一旦さっきので完了です。持ち帰って、鑑識の調査や目撃情報と突き合わせてみます」
「承知しました。頼まれていた書類のコピーを取りに行ってまいりますので、少々お待ち下さい」
 柳島が退出して、第一応接室には七星と百合川の二人だけが残された。穏やかな沈黙が、しばらくの間部屋を支配した。
「百合川さん。一つだけ聞いていいかな」
「内容によりますが……なんでしょうか」
「藤原さんが亡くなった場所は明言されていなかったけれども、もしかして遺書と同じ場所だったのかな」
 百合川は少し考えて頷いた。
「ええ、その通り。リビングです。そんな事を聞いてどうするんですか?」
「考えていたんだ。犯人はどうして藤原さんを殺すことになったんだろうって」
「それを解明するのが我々の仕事です。……逃げ得なんて一人も許しません。犯人は必ず我々が捕まえます」
「なるほど。それも、善良に生きている人々を救う一つの正義の形だね」
 その時、ファイルを抱えた柳島が戻ってきた。百合川は手渡された紙束を大事にカバンにしまいこむ。
「本日は捜査協力いただきありがとうございます。……それでは失礼します。見送りは結構です」
 百合川が一礼して応接室を出ていく。
「……ようやく帰ったな、あの刑事。全く、疑うだけ疑って信者の心を引っ掻き回して、とんでもない一日だった」
「あんまり邪険にするものではないよ。少し周りが見えていない所があるけれども、一般市民の平和を守ろうと必死なんだよ。職務熱心な刑事さんだ」
「容疑者にされた方としてはたまったものじゃないけどな。……少なくとも御兎や七星救心会の組織は関係なさそうなのが確認出来たのは収穫だったか」
 七星が顔を綻ばせる。
「いつも私や信者たちを守ろうとしてくれて、とても助かってるよ」
「自分の畑を荒らされたくないだけだ」
「畑? さしずめ私はスプリンクラーかな」
「大規模農業だな」
「この間Nテレで見たんだよ。人間がやらなきゃいけないことをできるだけ減らしてほとんど機械任せだなんて、すごかったねあれ」
「……ちょうど大規模農業施設への投資話が来ている。今度一緒に実物を見に行くぞ」
「本当? それは是非行きたいな。……そういえば慎一、葬儀の手配はどこまで進んでいるのかな?」
「聞き込みの合間を縫って手配を完了させた」
 七星が瞠目する。
「地元の葬儀社と連携して日取りまで決めたが、正直遺体が警察から帰ってくるのはいつになることやら」
「やっぱり慎一はすごいね。遺体は――今回は事情が事情だから仕方がないね。今週は重要な予定は一個も入ってなかったと思うんだけど、あってるかな」
「葬儀の日は確かに予定が入ってないが……まさか参列する気なのか」
「うん。会の中で一番最初に藤原さんの訃報を知ったのは私達だし、これも何かの縁だよ。それにね」
 七星は奇妙に穏やかな微笑を浮かべたまま続けた。
「葬儀には藤原さんと仲の良かった人が全員集まる。……藤原さんを死なせてしまった犯人も、きっと来てくれるよ」

 葬儀は彼女が足繁く通っていた七星救心会の支部で行われることになった。普段は小規模な講堂として使われている部屋が改造され、花の芳香が満ちていた。
 信者は喪服にいつもの礼拝用の布を首から下げた、ひと目で同門とわかる格好でそこら中の手伝いをしている。受付には藤原と仲の良かった上谷が立って、弔問客一人ひとりと話している。誂えられた司会台には手伝いに呼ばれた佐藤司祭が立って、さりげなく段取りの確認をしている。講堂の入り口では七星救心会の葬儀の作法が書かれたリーフレットが置かれ、ときおり訪れる信者ではない参列者が戸惑いながら手にとっていた。
 壁際で眉間にシワを寄せながらリーフレットを睨みつけている百合川に声をかけようと近づいた七星と柳島の背に、タイミング悪く声がかかった。
「七星様、柳島様。こんなところにいらっしゃいましたか」
 七星は振り返り、支部長である司教に微笑みかけた。
「久しぶりだね。こうして話をするのは、前の役職会議以来かな」
「まさか七星様が信者一人の葬儀においでになるとは……藤原さんも、きっとお喜びでしょう」
「会の中で一番最初に彼女の死を知ったのは私達だったから、これも何かのお導きかと思ってね」
「そうでしたか……ささ、向こうに控室を用意してございます。どうぞこちらへ」
 腰の低い老司教に案内されて通された部屋で、七星と柳島は普段着としている礼服から式典用の礼服に着替え始める。
 柳島が七星の服を整え終わり、準備は整った。
「よし、講堂に行くか」
「まだ行かないよ」
 七星の発言に、柳島は怪訝な顔で振り向く。
「……どうしてだ。犯人は参列客の中にいるんだろう。特定して刑事に引き渡してそれで終わりじゃないのか」
「行ったが最後、いろんな人に捕まって身動きが取れなくなってしまうよ。それにね。私の考えが正しければ、犯人はだいぶギリギリになってから来るはずなんだ」
「……まさかとは思うが、犯人と話す気か?」
「そうだよ。……慎一のことだからいろんな心配はあるだろうけれども、出来れば式の前に話をしておきたいんだ」
 柳島は七星に反論しようとしばらく言葉を探していたが、やがて諦めて肩を落とした。
「式の五分前には講堂に入るぞ。式のボイコットは教祖としての威信に関わる」
「ありがとう。いつも迷惑をかけるね」
「……流石に付き合いが長いからな。お前が必要だと言ったことは、大体正しいってことを知ってるってだけだ」
 柳島は肩をすくめ、七星は微笑んだ。
「それじゃ、廊下の長椅子で来客を見張っていようか」
 丁度だれからも注目されないような位置にあるベンチで、二人は受付を見張る。七星救心会の関係者はほとんど手伝いに回り、心ある参列者は既に講堂に入っているため、外からの参列客はまばらだった。一人かっちりとしたスーツに身を包んだ弁護士風の男が来て以来、待ちぼうけが続く。
 柳島が焦れてきたその時、七星が声を上げた。
「来たよ」
 受付にやってきたのは、一人の男だった。首にはなにもかけておらず、警戒するように落ち着き無く辺りを見回している。
「あれは……」
 柳島が今まで見聞きした情報をフルに活用して、正答に近そうな推論を探し当てる。
「藤原佳奈江の交際相手、か?」
「恐らくその『並川さん』だよ。……講堂じゃなくてトイレに向かうみたいだね、追いかけよう」
 立ち上がった七星の後ろを、柳島はついていく。
 講堂からは少し離れた男子トイレから出てきた男の前に、七星が立ちはだかった。
「君が並川さんかな」
「……どなた、ですか」
 ひと目で宗教者とわかる礼服を着た二人に、並川は警戒しながら答える。
「七星救心会の教祖、七星御兎。君とは初めまして、かな」
「お前が!」
 男が急に叫んだ。
「お前が……お前が佳奈江をたぶらかしたから……!」
 七星は何も言わずに、男のがなりたてる言葉に耳を傾ける。
「金目当てだったんだろう、それで入信させた、そうなんだな!? 一人で寂しくしていた佳奈江につけこんで、金を搾り取って、挙げ句の果て遺産まで!」
「君の言うことには、一つも心当たりはないのだけれども」
 静かな言葉で、七星は続ける。
「やはりそういうことなんだね」
「なにが……!」
 並川ははっとしたような顔で黙り込む。
「……証拠はあるのか。ないだろう?!」
「ないよ。けれども、きっと今頃鑑識の人が、藤原さんの家に立ち入った全員を特定して、その中に犯人がいるはずだと判断してる頃じゃないかな」
 男性の視線が慌ただしく左右に泳ぐ。たとえ目の前の教祖を躱して逃げようとしたところで、その背後には柳島がいる。
「……何が目的だ!」
「君には藤原さんの葬儀に参加してもらいたい」
 獣のような並川の視線に微塵もひるまず、七星は託宣を下すかのような口調で言う。
「親しかった人間として社会常識通りに参加するのではなく、亡くなった藤原さんと真っ直ぐに向き合うために」
「引き止めて警察に引き渡すつもりだろう!? 逃げたら逃げたで後から脅すんだ、そうに決まっている!」
「君だってこのままでいいとは思っていないんだよね。心底罪を逃れたいと考えているなら、きっと君はここに来ていない」
「それに。講堂にはすでに社会常識が大好きな猪刑事が座っていますよ。気づきませんでしたか?」
「なっ!」
「恐らく参列者全員の動向にぴりぴりと気を払っているはずです。……その目の前で、元交際相手が逃げ出してみなさい。どうぞ犯人として指名手配してください、と言っているようなものだと思いませんか」
 七星が諭すように言う。
「私達の目的は藤原さんを悼むことであって、君を捕まえる事ではないんだ」
「出棺まできちんと彼女を見送ってくだされば――その後は、どうぞお好きなように」
 並川はしばらく脳内で損得勘定を回し、やがて吐き捨てるように言った。
「……わかったよ」
 七星が頷く。
「決心してくれてありがとう。……そろそろ葬儀が始まってしまうね。講堂には一緒に行こうか」
 七星と柳島、そして並川はゆっくりと、棺を連れた葬列のように講堂に向けて歩き始めた。

 参列者全員に花緑青色のリボンが巻かれた白い花が手渡され、一人一人が順番に藤原佳奈江に手向けながら思い出を語り、別れの言葉を述べていた。
 礼服に身を包んだ司教や司祭達が丁寧に死後の安寧を祈り、親交のあった信者達が泣きそうになりながら別れを告げ、スーツに身を包んだ女性が白百合を手向けて黙祷し。最後に、最後列に着席していた並川が、藤原佳奈江の棺の前に立った。
「……佳奈江」
 司会台に立つ司祭にも聞こえないくらい小さな声で、並川は生前そうしていたように語りかけた。
 次の言葉を探し、見つかったのは、信心深かった彼女には決して言えなかった言葉。
「俺は宗教なんて大嫌いだ」
 そう呟いたのを皮切りに、次から次へと思いが溢れ出てくる。
「いもしない神のために生活を捧げてるなんてどう考えても頭おかしいだろ。キリスト教でも仏教でも関係なく、俺は宗教中心の生活ってものが理解できない。……それでも、友達がいる、知り合いがいるっていうから、黙っていたんだ。俺だって、理解が出来ないからって趣味の仲間と引き剥がされたらいい気持ちはしない。だから俺を巻き込まない範囲なら好きにしていいと思ってたんだよ。寄付はちょいちょいしていたが、別に常識はずれの大金を注ぎ込んだってわけでもない。生活の違いはあっても、俺たちならきっと上手くやっていけると思っていた。なのに……なんだよ、あの遺書は。あれが結婚の相談までしていた相手に黙って書く内容か!? 一言くらい相談してくれでもよかっただろ、事後報告すらなかったってのはどういうことなんだよ」
 段々と感情的になり、周りに聞こえるような声で不穏なことを言い始める並川を不審な目を向ける周囲を、七星がそっと手で制する。
「……何もかも一人で勝手に決めやがって。そんなに信頼できなかったかよ。……どう考えたって存在しない神様に全財産ぶっこむって、さすがにそれは頭がおかしいだろ。さすがに口出すだろ。……だから黙ってたのか。結局最後まで、お前は俺のことも財産狙いだと思ってたんだな。確かに最初はそれで興味を持った、でもな……一緒に生きたかった、ただそれだけだったんだ今は。……そんな俺の気持ちはどうでもよかったのかよ。なあ、俺はどうすればお前に信頼してもらえたんだよ佳奈江……!」
 棺の前で、並川が泣き崩れる。手向ける筈の白薔薇は、折られて潰されてぐちゃぐちゃになっていた。
 胸の内いっぱいの後悔に苛まれて慟哭する、元恋人。七星はその光景が尊いものであるかのように、静かに両の手を合わせた。

 出棺を見送った後、並川を乗せたパトカーはひっそりと警察署へと向かった。
 参列客は帰路につき、信者達は火葬場に向かい、後には七星、柳島、百合川の三人だけが残された。
「……刑事さんなら、どうして先に警察に言わなかったんだと言うかな」
「言いますよ。当然です」
 百合川はむすっとして七星を見上げる。
「警察も彼が犯人だと判断していたんだよね」
「他の刑事がずっと現場の証拠と目撃証言を集めていましたから。葬儀中に連絡が来ていましたよ」
「やっぱり警察はすごいよ。本人の自白だけじゃ、ちょっと心もとなかったしね」
「あれは自白の域を超えていただろう。謙遜も過ぎると嫌味だぞ。……御兎はいつ犯人が並川だと気がついたんだ」
「どういう犯人なら藤原さんを死なせるかを考えた時だね。……遺産目当てにしてはおかしなところが沢山あったから、一旦それを抜きにして考えたんだ。確信したのは彼の顔を見た時だったけれどもね」
「顔?」
「随分やつれていて、妙に怯えていた。……彼を見つけて、心の重荷を取り除く手伝いが出来て良かったよ。罪を償わずに逃げ続けるのは、とても苦しいことだからね」
「道理で犯人を見つけることに拘ってたわけだ。自分の立場も危なかったってのに」
 柳島が呆れたように言う。
 百合川が釈然としない顔で呟く。
「犯人が捕まるかどうかは二の次で、ただ救うために……?」
「生きている人間には、まだ人生の続きがあるからね。……それに、死んだ人間相手に出来るのは、こうして葬儀を上げることくらいだから」
 七星の目が、背後の支部を振り返る。
「……まだ仕事が残っているので、私はここで失礼します」
「うん、次に会うなら、人の生き死にとは関係ない事でだといいな」
「積極的には会いたくありませんけれどもね。……是非警察の世話になることのない、健全な宗教団体であり続けて欲しいものです。それでは」
 百合川は一礼して、自分の乗ってきた車の方へと去っていった。
「ハプニングはあったが、何もかもが無事に終わったな」
「うん。私は並川さんを救えて、柳島は私とみんなの無実を証明して、刑事さんは無事に事件を解決した。見事なめでたしだね」
「火葬場に合流するには……少し時間が半端だな。それに、佐藤と支部長に向こうのことは任せてある。僕がいなくても、あちらはあちらで立派にやってくれるだろう」
「慎一の采配の良さにはいつも感謝しているよ。それじゃあ、私達は家に帰ろうか」
 家に帰る。かつては自分の意思での外出が不可能だった七星の口から出た言葉に、柳島はほんの少し頬を緩める。
「そうだな。……この近所に、先週テレビで紹介されていたケーキ屋があったはずだ。買って帰るか?」
 七星の顔が一瞬喜色に輝くが、その眉毛が八の字に下がる。
「いいのかなあ、職務の帰りにそんな楽しいことをしてしまって」
「職務が終わったから行くんだ、妙な遠慮をするな。……神様らしさ、教祖らしさを求める連中は、今のところ全員遠くにいる」
 職務以外のことで一歩踏み出すことを恐れる七星を前にして、柳島の心に感傷が過る。
 初代教祖の度の過ぎた貪婪を七星に突きつけ、最終的に信者を巻き込んで初代を教祖の座から引き摺り下ろしたのは、他ならぬ柳島だった。七星が人間宣言した後も変わらず神として閉じ込めようとした連中を異端として追放したのも、柳島だった。
 それでも、柳島がどんなに手を尽くしても、七星御兎は自分と人を救う偶像を切り離すことが出来ない。
 神の座も教祖の地位も信者たちも、全て置き去りにして七星を連れ出してしまえばよかったのだろうか。何度目かの自問に、何度目かの自答を返す。生き神以外の未来を断ち切られて育った七星御兎が、神を辞めて一人で生きていくことに、どれほどの困難がつきまとうだろうか。彼の無菌室から連れ出すことが、七星の幸せと単純につながることがあり得るだろうか。
「わかっていはいるんだけれど、どうしてもね」
 一歩を踏み出せずにいる七星の答えを辛抱強く待ち続ける柳島に、七星は心苦しさをおぼえる。
 神として扱われるだけの自分の世界に初めて転がり込んできた異物が柳島だった。柳島は大人の目を掻い潜り、何度も顔を出しに来た。外の話を沢山聞かせてくれた柳島が、ぽろりと二世信者としての生活の強制への不満をこぼしたことがあった。一度だけ聞いたその言葉は、柳島の本心の一部に違いなかった。
 柳島は七星を閉じ込める檻を壊した。踏み出すことを躊躇した自分の周りに、せっせと居心地のいい安全な空間を作ろうとしてくれている。その結果得ている金や権力が、柳島の生活全ての代償として見合っているかは怪しいものだった。
 信者さえやめればどこにでも行けた柳島を鎖でつないでいるのは、他ならぬ七星だった。そして七星には、柳島を自由にする方法が全く思いつかないままだった。
 だからせめて、外を見せようとしてくれる柳島の思いには答えようとして。七星は、柔らかく微笑んだ。
「……でも、慎一が言うなら、行ってみようか」
 その一言に、柳島は嬉しそうに笑った。
「そうと決まれば着替えるぞ。実は車に私服を積んである」
「慎一の段取りの良さには舌を巻くよ」
「聖所に忍び込みまくってた頃に大分鍛え上げられたからな」
 神と信者として育った二人の大人は、屈託を抱えたまま子供のように笑いあった。