山瀬光一の日常-1

AM 07:09

 聞き慣れたアラーム音と共に、どこかで見たような光景が霧散していく。目を開けると、見慣れた棚とスチールパイプ、あとは入居時から薄汚れている天井が目に入った。
 懐かしい夢を見ていた気がする。もう十年も前に身罷った祖父に、幼い頃の俺が手を引かれてどこかに向かう夢。夢の中の祖父と俺は、一体何を話していたのだろうか。眠りの中に置いてきた記憶を辿ることは、もう出来ない。
 体を捩りながら枕元を手で探り、高校の頃から使い続けている黒縁の眼鏡をかける。スマホに表示された時刻は午前7時。もう少し寝ていたかった気もするが、目が覚めてしまったものは仕方がない。不承不承起き上がり、薄手の掛け布団を剥ぐ。
 電気ケトルのスイッチを入れ、冷凍しておいた白米を電子レンジに放り込んで600W2分。冷蔵庫には記憶通り、半額シールに貼られたほうれん草の胡麻和えがあった。ローテーブルに放り出し、電気ケトルと電子レンジが止まるのを待つ間、インスタント味噌汁と生卵をそれぞれ用意する。程なく完成した味噌汁、卵かけご飯を食卓に持っていき、手を合わせて食べ始める。
 テレビもない、同居する生体もいない部屋は、食事の時間に限らずいつも静かだ。この時間だと、スズメと、あとはキジバトが鳴いている声がよく聞こえる。
 今日はバイトは休み、他の外出の予定も特になし。部屋の掃除と洗濯をしてしまえば、時間は自由に使える筈だ。当てはないが、どこかに遠出するのもいいかもしれない。
 一汁一菜の朝食はすぐに無くなった。使った皿を流し台に持ち込み、うるかしている間に洗濯カゴを持って部屋の外に出る。
 リサイクルショップで買った時は新品同様だった洗濯機は、早くも錆の目立つアパートの外廊下に馴染みつつあった。洗濯ネットに入れる服とそうではない服を仕分けながら、次々と洗濯槽に放り込んでいく。単調な作業を進めていると、隣の部屋の隣人が顔を出した。
「カラス、おはよう」
「……カラスって呼ぶんじゃねえ、ブッ殺すぞ」
 いつもよりも覇気のない、心底眠そうな声。
 カラス。名字が烏山だからとつけた渾名ではあったが、実際にカラスそっくりの青年だ。
 重たい黒髪に、目撃する服装は基本的に黒ばかり。今着ているスウェットだって例外ではない。
 カラスはカラスで、職場で着ているであろうツナギ(黒)を洗濯機に放り込んでいく。
「……どうだよ、調子」
「俺なら元気だけど?」
「そっちじゃねーよ」
「ああ、洗濯機の方ね」
 わかっていた癖に混ぜ返しやがって、と言いたげな視線を笑顔で流す。
「少し汚れてきたけど、性能は相変わらずいい感じ。カラスに選んでもらって正解だったよ」
「俺は何も……たまたま、良いやつがあったってだけで……」
「もしまた何か入り用になったら付き添ってよ、飯おごるからさ」
「……まず壊さねーように丁寧に使え」
 ぶっきらぼうに言うと、カラスは洗濯機のスイッチを入れて自室に引っ込んでしまう。
 言葉は乱暴だが、キレている時のような攻撃力はまるでない。
 とはいえ、再びカラスを動員する機会は当分なさそうだった。必要な物は大抵揃えてしまった後だ。
 強いて言えばアイロン――衣類スチーマーのようなものがあれば嬉しいが、正直なくても事足りる。
 スマホが僅かに震える。バイト先の店長からメッセージ。
『佐々木さんが風邪で休むことになっちゃったんだけど、山瀬くん今日来れないかな???』
 洗濯槽の一番上には、先程放り込んだばかりのペットショップの制服がある。昨日は3時間程入っただけで、今日着ようと思えば十分に着用できそうな状態。
『さっき用事が入ったので無理です』
 そう返事を返し、液体洗剤を放り込む。蓋を閉めてスイッチを入れると、程なく水が注がれる音がした。