俺と彼女の暗殺行-7

……誰も来ない。何も反応がない。見張りすらいない牢獄で、それが延々と続くかもしれないという恐怖がじわじわと心を侵す。
……諦める気はないが、脱出する手立てがまるでない。
世の中には関節を外して狭い場所を通れる奇術師がいるらしいが、生憎ヴィンスはそんな技術は持っていない。
固定具の方に欠陥がありはしないかと身を捩るが、ビクともしない。
……どれだけの時間抵抗を続けただろうか、いい加減ぐったりとしていると、視界の端に動くものが見えた。慌てて視線を上げる。
一体いつからそこにいたのか、そこにはフードですっぽりと全身を覆った小柄な人影が立っていた。食事を運んできたようには見えない、かといって最後通告をしにきた風にも見えない。一体、何の用で。
ヴィンスの内心の不審を他所に、フードの人物はそ拘束具へと近づいてくる。少し背伸びをして、手元の何かを右手に近づける。薄暗がりの中に、一瞬そのシルエットが浮かんだ。
――――鍵。
「おい」
ガチッ、と重い音と共に枷が外れる。
「レイラ……? 違うな、お前誰だ? 何のために……」
俺の話を遮るように、自由になった手に鍵束が押し付けられる。
「あ、待て!」
俺の静止も聞かず、フードの人物は用が済んだと言わんばかりに、文字通り消失した。
……今のは、一体。少なくとも現実だ、右手には確かに金属の重みがある。
……人影の正体をいくら探ってもキリがない。何の目的で寄越されたものかはわからないが、これ以外に縋れるものはない。
左手の枷の鍵穴を探し、合いそうな鍵を押し当てる。重く滑らかな感触と共に、鍵が開く。
足枷も同様にし、俺は自由の身になった。
軽く体を動かす。麻痺も何も残っていない、問題なし。一体何時間経ったのかはわからないが、食欲はない。ただ緊張感と高揚感だけが昂ぶっている。
レイラを助けに行かなければ。例え、その結果俺が死ぬことになっても。
テーブルの上の装備を着々と身につけ、最後に槍を手に取る。
軽く振り下ろすと、俺を固定していた枷に大きな傷がついた。間違いなく俺の槍だ。
蝋燭を持ち、ナルニアの消えた方向、部屋の反対側に行く。螺旋階段。可能な限り音を立てないようにして、一段一段登っていく。
……一体どれほど登っただろうか、全く終わりが見えてこない。相当地下深くに閉じ込められていたのだろうか。
階段の終わりが見えた。……行き止まり? いや、違う。天井が跳ね上げられるようになっている。
一応耳を澄ませる。人の気配はない。両手で押し上げる。塞がれていることも覚悟したが、意外にも扉はすんなりと開いた。
がらんとした部屋だった。屋内ではあるが、槍でも振り回せそうな空間。窓から差し込む日は、記憶にある最後の日照とあまり変わっていない。
……実際には殆ど時間がたっていないのだろうか。確かめる時間はなかった。部屋の外の物音を伺い、見つからないように細心の注意を払いながら廊下に出る。
進路上に近衛騎士の姿を見つけ、角に隠れる。通り過ぎていくのを確認し、また死角へと移動する。
この方法でしばらく見て回っているが、出口らしい場所に全くたどり着かない。
……法衣や騎士団制服の人間しか見かけないということは、城ではなく教会の重要施設だ。
敵陣の只中にいてはいつ発見されて牢獄に逆戻りにさせられるかわからない。一刻も早く逃げ出して……逃げ出して、どこに行く?
町の中だって聖騎士だらけだ、その中に何人ナルニアの子飼いがいるかわかったものじゃない。万が一運良く元々の待ち合わせ場所に辿り着けたとしても、おそらくレイラはそこにはいない。……罠に嵌められているか、罠に嵌ったか、どちらかだ。
選択肢すら存在しない最悪の状態は脱したが、状況があまりにも八方塞がりだ。なんせ相手が何人なのか、自分がどれくらい危機的状況にあるのか、レイラに残された時間がどれほどあるのか、それを推し量ることすら出来ない。自然と最大限の警戒をすることになって……精神が、疲弊していく。
「うわっ!!」
すぐ横の廊下からなにかが派手に倒れる音がした。こっそりと様子を伺う。
「おい、気をつけろ! こっちはガラスの水差しを運んでるんだよ!」
「ひっ、すみません、すみません!」
「全く、いつまで新入り気分なんだろうな!」
憤然と歩き去る足音。廊下には倒れ伏した一人だけが残った。……他にはだれもいない。一呼吸置いて、倒れている下男の方に駆け寄る。
「大丈夫か?」
「いてて、あ、ありがとうございます……あの、巡礼の方ですか?」
「あー……まあそんなところだ。礼拝堂に行くつもりが迷ってしまった」
「……ふふ」
「何かおかしいことを言ったか?」
「いえ、だって……ここ三階ですよ? すごい迷子の人もいるものだなと思ってしまって」
「……成程な」
あの地下牢は余程後ろ暗い空間だったらしい。素直に一階から辿り着くことは叶わない空間。本当に碌でもない。
「……その頬の傷はどうしたんですか?」
「これか?」
ナルニアに殴られたときのものだ。同じく、適当な出任せを言う。
「……この町に来る前に魔獣と戦闘になってな。どうにか切り抜けたんだが、薬はもっと酷い怪我に使い切ってしまって」
「それなら……大いなる主よ、貴方の子羊の苦しみを癒やしてください――『ホーリーキュア』!」
淡い光とともに、頬の痛みが引いていく。
「僕、加護がそんなに強くないから、痛み止めくらいにしかならないんですけど……」
「いや、十分だ、ありがとう。お代は……」
「親切にしていただいたのでそのお礼です! あ、よかったら僕が礼拝堂にお送りしますよ?」
「いいのか? あんたにも仕事があるんだろう」
「ここで出会ったのも主のお導きだと思うんです!」
「そうか……礼拝堂というのは、あの――――」
何気なく見ていた建物のステンドグラスの向こうで、鮮烈に赤く光るものがあった。
炎よりも赤い。血よりも輝かしい。……そんなものを、ヴィンスは4つ一揃いしか知らない。
「礼拝堂というのは、あれか!?」
「え? ああ、あれは大聖堂です! 普段なら巡礼の方にも開放されているんですけれども……今日は、大司教様が特別な儀式をするとかで」
「大司教……!?」
ヴィンスの疑念が確信に変わる。
「そうか……いや、やはり案内は大丈夫だ。俺一人で行く」
巻き込むわけには行かないからな、という言葉を飲み込み、ヴィンスはステンドグラスを睨みつけた。

「高位の聖職者というのは実に疲れる仕事でね。教会を預かるものとして、信者共、下位の聖職者共、貴族連中との関係を絶妙なバランスで保ち続けなければならない。だからね、時として私にも息抜きが……それも、品行方正の真逆を行く息抜きが必要なのだよ、わかるかね?」
「わかってたまるかよクソ野郎……!」
「そうして強がっている娘が体の端から刻まれて、抵抗する手足を失って芋虫のように藻掻く絶望に満ちた姿は……実に、ああ、思い出すだけでも、実にそそるのだよ」
「ド変態野郎が……」
レイラの体が運ばれていく。
「それに、君にとっても間違いなくいいことが一つだけあるよ」
「んなのあるわけ……」
「ヴィンスだけどね、君を連れて行く予定の地下に既に捕らえてあるんだ」
「なッ……! あいつは関係ねーだろ!」
「君と同じ、猊下の命を狙う不届き者だ。僕らがそう発表したら、そういうことになる」
「ふざけんな……ふざけんなよ……」
「残念だったね、君の希望はもうどこにも残されてはいない」
「畜生が……!」
抵抗など碌に出来ないまま、レイラが運ばれていく。蔓薔薇の拘束はびくともしない。保険程度に持っていた予備の武器も、こうなってはまるで機能しない。最後まで諦めない等という決意は、最早あってもなくても同じだった。
…………………………ああ、畜生。
……エイムとアウラ、そして俺の未来を奪ったオーギュストには復讐しきることが出来ず。
その先にいるクソ野郎には、復讐どころかクソみたいな楽しみのために嬲り殺されようとしている。
ヴィンスにも、命一つ分以上に救われたというのに、何一つ報いることが出来ず。
虫みたいにすり潰されて……俺の人生は終わる。
畜生。
声には出さない。出さない分、惨めな気持ちが体中に満ちていくようだった。
睨みつける。奴らは勝利を確信して、最早勝ち誇ることすらしない。自然体で、油断して、もう次のことを考えている。
……畜生。
頬を伝い、口に何かが入る。額の傷から流れた血にしては、随分と鉄臭さがなかった。

甲高い破裂音が耳を撃った。
その場の全員が頭上を見上げて絶句する。天窓を構成する七色のステンドグラスが、大量の破片――無尽蔵の刃となって落ちてくる。
「ひ、ひぃ!」
「退避してください殿下!」
表情を一変させた大司教があたふたと逃げ回り、ナルニアが拘束の手を緩めないままにフードを被る。
オーギュストが片腕で顔を庇いながら頭上を睨み、フランベルジュだけを構える。
直接差し込んだ陽の光に、一瞬二人の目が眩んだ。
瞬間、真横からの不可視の衝撃でナルニアのレイピアが弾き飛ばされる。魔力の供給の途絶えた蔓が力を失い、締め上げられていたレイラが自由の身になる。着地するや否や双剣を蹴り上げて拾い上げ、再び両手に剣を構える。
いつの間にか姿を現したヴィンスが、レイラに駆け寄って隣で十文字槍を構える。レイラは袖口で顔面を乱暴に拭うと、ヴィンスに悪態をぶつけた。
「おっせーんだよヴィンス、テメーどこに行ってやがった!」
声を張り上げて怒鳴るレイラ。祭壇の裏から姿を現したヴィンスが怒鳴り返す。
「そこの天使みたいなクソ悪魔に捕まってたんだ! アンタこそ……アンタ、散々気をつけろって言ったのに罠に嵌ったのか! 馬鹿か!?」
「うるせぇ、それこそなんだ今の出方、てっきり窓ぶちやがってきたのかとちょっと期待しただろうが!」
「中の状況もわからないのにんな真似出来るか! そもそも飛び降りたら死ぬに決まってるだろうがあんな高さ!」
「それが死地に飛び込んできた馬鹿野郎の台詞か馬鹿が! ……だがまあナイスタイミングだ、助かったぜヴィンス!」
きひッと笑い、レイラの目と左右の刃にクリアレッドの輝きが戻る。
「……馬鹿な。一体どうやって……誰がお前を逃した!」
ナルニアが平静さをかなぐり捨てて叫ぶ。
「さあ? 案外お前の近くにいるのかもしれないな、その裏切り者は」
ナルニアが苛立ちを隠そうともせずに、ヴィンスが深い怒りを隠そうともせずに、互いを睨む。
オーギュストが体勢を立て直し、正眼に構えてレイラを正面に捉える。
「俺は庇えないからな、やれるだけ生き残れよ」
「……そこは背中は任せた、とかじゃないのかよ」
「ここを切り抜けたら昇格させてやるよ相棒。……行くぜ!」
レイラの体が砲弾のように撃ち出される。
傷ついた暗殺者と傷ついた暗殺者が、先程の戦いを焼き直すかのようにぶつかり合う。
「らぁッ!!」
地に足をつけて堅実に攻防を行うオーギュストの退路を、レイラがひたすら塞いでいく。既に長椅子が4つほど半壊していた。
「疲れを隠すためか? その大振りでは私を仕留めることなど到底叶うものか!」
「テメーもさっきから足元がおぼついてねーぞ! 死ね!」
互いに全身に切り傷を増やしながら、ここで相手を殺せればあとはどうなってもいいと言わんばかりに刃と刃が激突する。
「ヒッ、きききききき聞いてないぞこんなの!」
身を翻して祭壇横の扉から逃げようとした大司教だが、その目の前にヴィンスが滑り込んで立ちはだかる。
豚のような悲鳴をあげて逆方向に逃げる大司教と入れ替わるように、ヴィンスの元に茨が蛇のように殺到する。
――巻き付かれても狭いところに追い込まれても終わりだ。
そう悟ったヴィンスが、最初の一本だけ払って真横に避ける。何もいない空間に突き刺さって扉を枠ごと破砕する銀の蔓を横目に、ナルニアへと真っ直ぐ踏み込む。
「お前ごときが僕に勝てるとでも!」
ナルニアが全ての蔓を手元に戻し、再び解き放つ。ヴィンスはすんでのところで美しい石床すれすれにしゃがみ込み、低い位置から片手の内に隠し持っていたものを投擲する。
ナルニア目掛けて飛んだ小石はシンプルな動きで躱され、背後の長椅子に当たって爆ぜた。
「はは、幾らなんでも速度が足りなさすぎるよ!」
んなことわかってる。口には出さず、ヴィンスは次の一手を探り続ける。
ヴィンスのやることは実にシンプル、手数の多いナルニアの意識をヴィンスの方に釘付けにしておくこと。
大司教は問題ない、恐らくはヴィンスとナルニア、レイラとオーギュストの激戦の背後に行かないと逃げ場が無いのだろう。ずっと祭壇の後ろで巨体を小さくしている。
相手はナルニア、出し惜しみは厳禁だ。三手に分かれて襲い来る茨を、槍に届くものも届かないものも、一斉に切り捨てる。……やはり素材がいい、普通の茨よりはよほど硬い筈なのに、対抗出来ている。
「厄介な槍だな……!」
「お前の性格ほどじゃねー……ぐっ!」
床の上を跳ねた茨の一本が足の肉を食い破る。
軌道が複雑過ぎて予想が出来ない。かといって逃げ回って遠くから風の刃ばかりを当てる戦法を許すような相手ではない。
考え込む時間すら与えられない、距離を空けても近距離に潜り込んでもまるで無意味、破格の性能の魔武器を持ってようやく互角。とにかく凌ぎ続けるので手一杯だ。
大きくしなった一本が、ヴィンスの反応速度を超えて飛来する。
「っ!」
派手な痛み。腹の表面が一文字に裂け、引っかかった腰の鞄が明後日の方向に吹っ飛ぶ。
ダメージ。甚大な痛み。選択肢の大幅な減少。一撃で一気に未来が狭まった。
それでもヴィンスは歯を食いしばり、ナルニアへとかかっていく。
レイラとオーギュストの、何合もの打ち合いの果て、オーギュストの左手でガキリと致命的な音がした。
「だっクソ!」
一瞬の判断で手放された剣が、オーギュストの背後に落下する。椅子と石の上で跳ね、それぞれに甚大なダメージを与える。
レイラが椅子の群れよりも体勢を低くする。その意図は3秒後に明らかになった。
「らぁああああああああ!!!!」
長椅子が――――優に5人は座れる長椅子が、まるごと一つ、オーギュスト目掛けて投擲された。
「小癪な!」
オーギュストが剣を目前に突き出す。過去の斬撃に接触し、木製の長椅子が大量の細かな刃物に削られたかのように真っ二つに両断され、オーギュストの両脇に落ちる。
木くずだらけの視界の向こうに、真っ直ぐに飛び込んでくる小さなものがあった。
咄嗟に突き出したままだった剣で払った途端、雷で撃たれたような衝撃がオーギュストの体に走る。
動けなくなったオーギュストの傍らに、破砕された木箱と――――その中に入っていた、雷石が転がる。
両手の剣を振り上げることも出来なくなったオーギュストに、レイラが迫る。
余計な口上も余分な動きもない。ただ、片翼だけを無言で振りかぶる。
オーギュストの体は、大きく袈裟掛けに切り裂かれた。
「……さよならだ」
オーギュストの目がギュルリと上を向く。
どさり、と、ただの肉塊に成り果てたオーギュストが、大聖堂の床を真っ赤に汚した。
最後まで何も事情を説明しないまま――逝った。
レイラは振り返らない。ただ、石床に斜めに突き立った右翼に手をかけ、深く息をつき――そして真左に振り向く。
その重心が深く沈み、ひとっ飛びに祭壇へと駆け寄る。
「なっ」
そこでようやくオーギュストが敗れたことに気がついたナルニアが、ヴィンスに差し向けていた蔓の2本を引き戻す。
迎撃しようとしたナルニアをガン無視してレイラがすっ飛んだ先には……大司教。
「ひっ、お、大いなる主よ、御身を慕う子羊の身を護りたまえ……『セイントガード』!」
「子羊じゃなく大豚の間違いだろうがッ!」
出現した盾に構わず、レイラが剣で殴りかかる。
宙に出現した半透明の盾が、強烈な二撃に白く濁る。
「流石に硬いなクソが!」
「僕をッ無視するなァ!」
そう叫んだナルニアの左腕を槍の一撃が掠める。
切り裂かれ、引き裂かれ、ズタズタになったヴィンスは、全く闘志を弱めてはいなかった。
連続して繰り出されようとした攻撃は、今度は剣先で軽くあしらわれる。
「こっちが先か!」
右に急転換したレイラの攻撃を、2本の茨が打ち払う。
「2対1如きでいい気になるな!」
「細っこい腕がちょっと増えた程度でいい気になってんじゃねえ!」
合間合間に大司教への攻撃を試みながら、レイラが蔓薔薇2本の相手を。傷つきに傷つき、動きに精細を欠くヴィンスが、残りの一本を。
盾をずっと維持しなければいけなくなった大司教が、顔面から大量の脂汗を流しながらさらに聖句を重ねる。
「おおおおおお、お、大いなる主よ、御身を慕う子羊の身を護りたまえ……『セイントガード』!」
白く濁っていた光の盾が、元の淡い輝きを取り戻す。……またダメージの与え直し。短期決戦でなければ意味がない。それを確信しても、ナルニアに致命的な隙が生まれない限り、盾を破れるだけの衝撃を与えられそうになかった。
ヴィンスが槍を高速で回し、殺到する茨を迎撃していく。ダメージを負っているとはいえ、自分に来る本数が一気に減った。
「これなら……ッ!」
縦に振り下ろした斬撃が、一瞬遅れた茨を切り裂く。ナルニアに届きそうだった風の刃は、寸前で茨製の即席盾に防御される。
「なんだ、何なんだお前らは……! ルミエーレ教に逆らって、悉く僕らの邪魔をして、ただで済むと――」
「ただで済むとは思っちゃ無いさ、だからその前にテメーらをブッ潰す、それだけだ!」
「黙れ、黙れ黙れ黙れエ!!!!」
ナルニアの攻撃がレイラへ。その隙を逃さず、ヴィンスがナルニアに直線に突っ込む。
ナルニアが血走った目で茨の一本をヴィンスに差し向ける。ヴィンスは止まらない。
(刺し違えてでも……!)
互いへの最短距離を、ヴィンスが、銀の蔓薔薇が、真っ直ぐに疾駆する。
「ナルニアアああああああああ!!!!!!」
ヴィンスが絶叫する。
ナルニアは何も言わない。ただ、その口角は僅かに上がっていて、そして――
カンッ。
いっそ軽過ぎるくらいの音を立て、ナルニアの手からレイピアが弾き飛ばされた。
縦横無尽に伸ばされていた茨が消え、驚愕に僅かに目を見開くナルニアとヴィンスの間には何も無くなる。
ヴィンスが真っ直ぐに突貫する。振りかぶる動作はない。ただ、真っ直ぐに。基本の基本、上段に構えた槍を、一直線に突き出し――――
その切っ先が、ナルニアの肩口を深く抉った。
「ぎッ!? ぐ、あああああああああ!!!!!!!!!」
骨まで焼けるような痛みに、ナルニアの喉から絶叫が迸る。癒やしの聖句を何通りも暗記している筈の脳は痛みに支配され、喉は悲鳴に焼かれる。
「な、何をやって……貴様、私を守れずに死ぬ気か!」
顔面を脂ぎった汗で濡らした大司教が叫ぶが、その眼前にはレイラが迫る。
「お、おおおお、『大いなる主よ、御身を慕う子羊の身を――――』」
「らああああああああああっ!!!!!!!!!!」
「ッあああああ!!!!!!!」
全力の跳躍、全力の振り上げ、全力の殴打――――レイラの最高の一撃に、ヴィンス渾身の不可視の刃が重なる。
大司教が唱え終わるより早く、3つの刃が盾に染み込み、そして、
パリンッ
儚く、済んだ音をたてて、盾が砕け散る。
まるでスローモーションのように、勢いを止めなかったレイラの刃が、大司教の脳天に到達した。
聖なる光が霧散し、肉色の何かが辺り一面に飛び散る。
凄惨なる光景。
間違いなく、即死。
びくりとも動かない死体と血の海を前にして、レイラが両腕の剣をゆっくりと下げる。目を閉じ、両腕の剣も、赫を和らげて、銀色の翼としてただ傍らに。
……一枚の、宗教画のように穏やかに。
「レイラ……」
ヴィンスはそれ以上言葉を続けることが出来なかった。
終着、した。レイラの旅が、ここに、ようやく。
終わった。
「ぐ、ああああ、大いな、る主よ、私の痛み、苦しみを、和らげたま、え……『ホーリーキュア』……!」
苦痛の滲む聖句。……必死に唱えた呪文はしかし、砕けた肩の骨を治すまではいかなかったらしい。ナルニアは真っ青な顔で、肩口を押さえて、辛うじて倒れずにレイラとヴィンスの前に立つ。
「お、お前ら、何をしたのかわかってるのか……?」
聞かれるまでもないことだった。レイラとヴィンスは何も言わずにナルニアを見る。
「どうしてくれるんだ、僕は猊下に見いだされて、他の何もかもを捨てて尽くしてきたのに……その苦労の全部がパアだ! お前らのくだらない復讐のせいで!」
外がにわかに騒がしくなった。顔面蒼白だったナルニアの口元に引きつった笑いが浮かぶ。
「……まさかお前ら、このまま何事もなく逃げられると思っていないよな?」
喧騒の正体に気が付き、ヴィンスが目を見開く。
「あれだけの騒ぎが外にもれないはずはないだろう? ……お前らはここでお終いだ」
「聖騎士……!」
「いくらお前が強くてもあっちは訓練された集団、勝てるわけがない! 今なら――」
ナルニアの口上が終わる前に、黒い何かが割れた天窓から落ちてきた。その正体を悟る前に球体が大司教の倒れているすぐ横に炸裂し、炎を吹いた。
「なっ!」
黒い球体は一つでは終わらなかった。さらに続けて、落下地点の周り……聖堂の床に、炎を撒き散らしていく。油でも入っているのか、石床の上でもお構いなしだ。
「な、何故だ何のつもりだ! 僕が……僕がまだ中にいるんだぞ!」
「とっくに死んでると思われているか」
「お前ごと事態を隠蔽してもいいって思われたんじゃね?」
「馬鹿な……! そんなことが……!」
その叫びが外の何者かに漏れることはない。炎の群れは祭壇の白いクロスも、タペストリーも巻き込んで燃え上がっていく。
「これ以上燃えると流石に拙いな……おいリュカ! いい加減出てきやがれ!」
レイラの一喝に、聖堂の後方、聖歌隊が立つようなバルコニーから、小さな体が飛び降りてきた。着地の瞬間にくるりと後転し、何事もなかったかのように大理石の地上に降り立つ。
……あの町で屋根から落ちても無事で居るはずだ。
ヴィンスが納得したところで……その身長が、ヴィンスが地下牢で見たフードの人物と妙に似ていることに気がつく。
「お前だったのか!」
「気づくのが遅いよ」
「この……お前が、あそこで邪魔をしなければッ!」
「裏切ってはいない。最初から僕には別の目的があっただけだ」
話は終わった、といわんばかりにナルニアから視線を逸らし、レイラの方を見る。
「リュカ。そいつ連れて逃げろ。こっそりヴィンスを開放してそこに戻れるくらいだ、秘密の抜け道の一つや二つ知ってるんだろ」
「……逃がすか……!」
ろくに動かない右手に握ったレイピアから繰り出される茨の群れを、レイラの大剣が雑に振り払う。
「俺はコイツを振り切ったら追いかける。……どんなにいい抜け道があったって、追いつかれちゃ意味ねーだろ」
「レイラ、お前……!」
「……行くよ」
リュカはさっさと行ってしまう。ヴィンスはしばらく迷い、レイラの方へと叫ぶ。
「……絶対に無事で帰れよ!」
「たりめーだ、ここで死ぬ気はねーよ!」
……その言葉を信じるしかなかった。
炎とレイラに踵を返し、リュカを追う。
一見木製の壁としか思えない箇所を押しながら横にずらすと、そこにぽっかりと穴が空いた。
「ついてきて」
するりと滑り込むリュカ。全く小柄ではない上に長物をもったヴィンスは、四苦八苦しながらその後ろについていく。
「……お前、どうして俺を……」
「……『レイラとオーギュスト、どちらか信用に値しないと思ったほうを殺せ』……僕はそう命令されていた。君は最初からどうでもよかったし、オーギュストを確実に殺すにはもう一つ不確定要素が必要だった」
「最初から最後まで手のひらの上、だったのか」
突如、背後から熱風が吹き付けてきた。
「な、なんだ!?」
「……急いで」
胸中で猛烈に吹き荒れる不安を抑えながら、ヴィンスひたすら小さな背中を追う。
カコン、と小さな音と共に天井が跳ね上げられる。
向こうに見えた空は真っ赤に染まっていた。
ヴィンスは慌てて体を乗り出して辺りを見回す。……大聖堂が、巨大な一つの炎に変化していた。
「そんな、レイラ……!」
膝から力が抜けて、へたり込む。
路上に座り込むヴィンスの姿を見咎める者はいなかった。聖王都のあちこちに、神の家を失って呆然と悲しみに暮れる人々が立ち尽くし、あるいは膝を追って崩れ落ちていた。
「……どうしてだ。どうしてレイラは」
絞り出すような声は、炎の爆ぜる音と避難指示の怒号にかき消された。
レイラは言っていた。『大司教を殺す依頼がオーギュストの裏切りによって失敗した』と。……ならば、今回の聖堂ごと焼き尽くす大火もその連中の仕業だろうか。あるいは、或いは――――。
――生まれから、絶望から、死まで。レイラは、どうしようもない大きな力に振り回されて――!
「……畜生……!」
あまりにもやるせなかった。地面に拳を叩きつけても何一つ変わらなくても、それ以外のことは何も出来なかった。
リュカが踵を返す。
「行くよ。これだけ待ってもこないなら、きっと死んでる」
「…………」
もう少し待ってくれないか、とは言えなかった。とっくに、リュカとヴィンスが隠し通路を通り抜けてきた以上の時間が経っていた。
槍を杖代わりにして、ようやくのことで立ち上がる。
「表通りは野次馬が多い。裏道から行くよ」
返事はなかった。同意の動作もなかった。けれども、ヴィンスの足はのろのろと大聖堂と違う方向に向く。
誰が歌い始めたのか、聖歌の歌声が町にぽつりぽつりと広がっていった。