俺と彼女の暗殺行-1

冒険者ギルドの入り口を、十文字槍を背負った茶髪の男が慣れたように潜った。
幾つかの視線が男に集まって、すぐに興味を失ったように散る。そんな周囲に若干苛つきながらも、男は特に何も行動を起こさない。中級冒険者の証明である鉄色のプレートを一歩ごとに胸元で弾ませながら、真っ直ぐにギルドの奥にあるカウンターへと向かう。
カウンターの奥で退屈そうに座っていた老人の小さな目が、来訪者をじろっと見上げる。
「……ヴィンスか。今日は何の様だ?」
「昨日の報酬を受け取りに来た」
「あ? ああ、あったなそんなもの」
老ギルド長はヴィンスが机の上に置いた達成証明に目もくれず、掴み取った銅貨をちまちまと青年の前に置いていく。
最終的に積まれた僅かな銅貨を見て、ヴィンスの眉間にシワが寄る。……想定より少ない。飯代と、消費されたポーションの購入費だけで簡単に飛ぶ額だ。
受け取りを了承する前に必死に計算する。依頼額、ギルドのルールに従った天引き分、……あとは毎年夏にやってくるギルド登録料の取り立て分。
「残念だったなあ? ちゃーんとお前の大好きな細かいルール通りの金額だぞ?」
ニヤつく老ギルド長の顔を睨みつけて、ヴィンスは手持ちの革袋に銅貨を詰め込む。
「中級用の新しい仕事は。今回より手取りが多くなるなら何でもいい」
「そんな都合のいいものがあると思ったか? どれもこれも取られた後だ、お前とは違ってチームでガンガン成果を上げる優秀な奴らにな。……それとも、またどこかのチームにソロとして潜り込むか?」
「俺のところはお断りだからな寄生虫!」
背後から野次が飛ぶ。こちらから願い下げだ、と叫びたい気持ちをヴィンスはぐっと堪える。どんなにムカついても、いつ金のために頭を下げることになるかわからない相手だ。
「……リストを見せろ。俺が見て決める」
老ギルド長の顔が歪む。
「全く、本当に無駄に細かい奴だな。勝手にしろ」
投げ渡された紙束を、ヴィンスは一枚ずつ捲っていく。
『共同下水道の清掃と害獣駆除』報酬が少ない。パス。
『農場の草刈り手伝い』報酬が野菜。論外だ。パス。
『西の森のワイバーン退治』パス。死ぬ。俺が。
『白錫草の採集』大所帯のパーティー向け。が、選ぶとすればこれだ。
「これを」
ビラを見せると、老ギルド長があからさまに嫌そうな顔をする。
「注記に初級冒険者向けって書いてるのが見えないのか間抜け」
「知識が必要で地味な採集クエスト、竜車も必須、しかもこんな安い報酬でどの初級冒険者が受けるんだ馬鹿。俺一人で行ってくるのが一番効率がいいだろ」
「……近々エヴァンス家のボンボンとその取り巻きが冒険者デビューする、その護衛任務の方が割がいいだろう」
ヴィンスは何も言わない。その顔を見て、老ギルド長はおどけたように手を顔の高さに持ち上げる。
「そんなに怒ることないだろ」
「我儘で有名なクソ野郎、しかもナルニアの弟のお守りなぞ真っ平だ」
話はこれでおわりだ、と言わんばかりにヴィンスは老ギルド長から視線を逸らす。
「……ギルドの竜車を借りる、レンタル代は依頼料から差っ引け」
「……勝手にしろ」
「勝手にするさ」
吐き捨てるような言葉の応酬の末、ヴィンスは今度こそ踵を返す。
背後から刺さる侮蔑、哀れみ、嘲笑の視線を断ち切るように、ギルドの扉が乱暴に閉められた。

その、少し後。

冒険者ギルドの入り口を、目深にフードを被った女がくぐり抜ける。フードの隙間から、一筋だけ金色の長い髪が溢れていた。
幾つかの視線が女に集まる。冒険者ギルドでは、この町では、初めて見る女だった。
カウンターの奥に座っている老ギルド長が、襟元を正してにこやかに女を待ち構える。ヴィンスを苛めていた時とは全く違う態度の滑稽さに、何人かの冒険者が必死に笑いを噛み殺す。
「ようこそ、冒険者ギルドへ。ご依頼でしょうか? それとも……冒険者登録でしょうか?」
女の両腰には、二本の剣。かなり幅広の、鉈と呼んだほうがしっくりくるような、妙な形状をした片手剣が一本ずつ、抜身のままベルトに固定されていた。
「あー……多分、依頼ってことになるんじゃねーかな」
男のような口調は、紛れもなくフードの女の口から出たものだった。
「どのようなご依頼でしょうか?」
「ルクスルフトまで竜車を出してほしい」
「ルクスルフトまで! それはまた随分遠いですね、女性の一人旅にしては随分大変だと思うのですが、よろしければご事情などをですね、」
「出来るのか?」
言葉から、屋内で色のよくわからない眼から、有無を言わせぬ圧力がかかる。老ギルド長が一瞬押し黙り、視線を彷徨わせる。
「依頼をお受けしたいのは山々なのですが、今のギルドの状況では少々……ギルドでお貸し出来る竜車も限られていますし、聖王都までとなると依頼にかかる日数も膨大なものになりますし、そんな依頼でもやりたがる冒険者は少ないかと……」
「それでもというのなら相応の金が必要になる、と」
「ええ、行商人の竜車に同乗させてもらうのが一番よろしいかと……ああ、でも一ついい方法がありますよ!」
「ほう」
饒舌に、嬉しそうに語るギルド長に、声音を一切変えずに女が答える。
「ソロの冒険者にヴィンスという奴がおりましてねぇ。竜車の操縦にもよく慣れていて、次の依頼の予定もない暇人でねぇ。きっと女性の頼みなら格安で引き受けてくれますよ」
老ギルド長の言葉に、聞き耳を立てていた冒険者達の間から失笑が漏れる。
「……依頼料を抑えられるのはいいんだが、そういうものか?」
「何なら私からもヴィンスに言っておきますよ、そうすればね、確実に値切れますから!」
女性が片頬を吊り上げる。
「……成程、上に恵まれないのは俺だけじゃないってか」
「何か言いました?」
「いいや、別に。……そのヴィンスって奴の特徴は?」
「茶髪の、どうってこと無さそうな冒険者ですよ。やっぱりどうってこと無さそうな十文字槍を持ち歩いてるんで、戻って来たらすぐに分かるんじゃないでしょうかね」
「そいつの行き先は?」
「……何故そんなことを?」
「ああ、何、どれくらいで帰ってくるのかが知りたくてな」
「ノルジスの谷に向かうとの話でしたので……今日の夕方辺りでしょうかねぇ」
「なるほど、わかった」
それだけ言って女はカウンターを後にする。
「夕方まで奥でお待ちになっては――」
引き留めようとする老ギルド長の言葉は、ギルドの喧騒にかき消されて女に届かなかった。

のっしのっし、と安定感のある歩みで竜車を引いていく地竜の尾が揺れるのを眺めながら、ヴィンスは一人物思いにふけっていた。
……俺にだって仲間はいた。
アポロ、ギリアン、ナルニア、そして俺の四人は、この町で生まれ育った。生まれも育ちもみんなバラバラだったが、小さい頃から一緒に遊んでいた仲間だ。ナルニアが冒険者になると言った時、みんな当たり前のようについて行った。
鍛冶屋の息子、筋骨隆々、大剣や斧の威力なら誰にも負けないアポロ。
親の代から冒険者で、自作のクロスボウを改造しながらどんな魔獣でも倒してきたギリアン。
町の古い家柄の出身で、パーティーの中心的存在、剣と交渉事の達人のナルニア。
……特に冒険者に向いている家柄も資金力も体格もなく、その分を他三人のサポートに回り、チームの実力を最大限に引き出す引き立て役の俺。
一切の雑事を俺が担当することで、他の三人は強敵との戦闘に集中する。そういう分担で、パーティーは一応うまく回っていた。
とはいえ、俺だってただのサポートで終わる気はなかった。ナルニアに頭を下げて槍術をかじらせてもらった。ギリアンの親父さんに投石器の作り方と使い方をレクチャーしてもらった。一応は実戦も詰んで、それなりにモノにした。
サンジェミニ王国の冒険者は一生に一度だけ、ルミエーレ聖騎士団の入団試験を受けることが出来る。
ナルニアは口癖のように「僕は聖騎士団に入るんだ」と言っていた。ナルニアの言うことは俺らにとっては絶対だったから、ナルニアの夢は、いつしか俺たち四人の夢になっていた。
聖騎士団に入れば、清潔な寝床や服、十分な食事が毎日提供される。毎月決まった給金が支払われる。今まで手にしたことのないような壮麗な剣を拝領することが出来る。そして……誰もの憧れである、白銀と蒼を基調とした凛々しい制服に身を包むことが出来る。
鍛錬を積んで、実戦を積んで、装備を整えて、血の滲むような努力を重ねて――――
――――けれども、そんな誰もがイメージ出来るような努力では、全然足りなかった。
入団試験に、三人は合格して、俺は失格した。
騎士団程に求められているのは前衛に組み込んでも問題ない実力を持っていて、尚且ギルドで問題を起こさずに仕事をしてきたという実績、両方を併せ持つ冒険者。実力は足りていなくとも、仲間をサポートすることでパーティー自体の実力の底上げをする……俺みたいな冒険者は、必要としていない。
そこまではいい。……いや、良くないが、どうにかこうにか自分を納得させようと努力することは出来る。
本当に許せないのは今でも忘れられないナルニア達の……あの時の、「可哀相ではあるけれども妥当な結果だ」と言わんばかりの三対の目。
奴らには実力があった。けれどもその実力を身につけることが出来たのは、間違いなく俺が面倒事の何もかもを肩代わりしてきたからだ。それなのに、あいつらは、負け犬になった俺には目もくれず――――!
――、――――。
……聖騎士団に入団する夢を絶たれた俺が選べる道は三つ。
一つ。町の安全な仕事に就く。冗談じゃない、結局は日雇いのクズであるということが全く変わらない。
一つ。店、もしくは荷竜車を手に入れて、商人としての生活をする。元手がないため不可能だ。
一つ。冒険者を続ける。命の危険はあるが、一攫千金のチャンスがある。
そうして三つ目の選択肢を選んだ俺だが、ソロの冒険者が受けられる実入りのいい仕事は殆どない。万が一あったとしても……あのクソジジイがさっさと他の有望なパーティーに回してしまう。新しいパーティー? 冗談じゃない。あんなことがあった後に、しかも俺を冷笑してくる連中を仲間にするくらいなら溝浚いでもしていた方がマシだ。
先行きはどこまでも暗い。けれども一人でやっていくしかない。
いや……一人でもやっていけるのだと証明し続けるしか、俺なりに意地を張る方法はない。いつか万が一にでも、光明が差すのではないかという僅かな希望だけ懐に入れて。
ヴィンスの乗った竜車が下り坂に差し掛かる。ノルジスの谷は目前だった。

採集用の短剣で、幾つめかの白錫草の株を根本から刈り取る。腰につけた小さな籠が満杯になっていることに気が付き、竜車の荷台の上でひっくり返す。採集した白錫草の山は、最低買取量の軽く三倍もの量になっていた。
ヴィンスの想定していた以上に、楽な仕事だった。
白錫草の群生地は知っていたし、簡単に刈り取れる方法も今までの経験で知っていた。
報酬は独り占め、余分に刈っていけば足しにもなる。竜車のレンタル代と保険代が高額になるとはいえ、十分におつりがくる。
しかも今日はラクーンマウスの邪魔も入らない。いつもなら脛にじゃれついてきたり噛んできたりと小さな体躯なりのショボい攻撃をしてくるはずなのに……――
――――邪魔が入らない?
妙だ。そもそも白錫草はラクーンマウスの好物、こんなに広大な花畑になるのはごく限られた条件下でしかありえない。日照量、土の質、水はけ、そして――――ラクーンマウスが一匹残らずに逃げ出す程の、強い魔獣の存在――!
刈りかけだった白錫草を放り出し、ヴィンスは一目散に竜車目掛けて駆け出す。
目先の利益に夢中になって、自分の置かれている状況を間抜けにも見逃して――そんな、馬鹿なことで死んでたまるか!
竜車は目前、白錫草は十分に積んである。頼む、俺に――間抜けな獲物の存在に気がついてくれるな!
竜車の縁を掴みかけた手の目の前で、
パンッ
と竜車の側面が弾けた。
ヴィンスは即座に手を引っ込めて脇に飛び退く。矢でも放たれたような空気の音と同時に、2つ目の刀傷――いや、鎌傷が車体の側面を弾けさせた。
竜車の車体の陰から、見えない刃が飛んできた方向をちらりと確認する。そこに佇んでいたシルエットは、彼が予想していた通りのものだった。
蟷螂を竜車と同じくらいに巨大に引き伸ばして、尚且つ黒い金属でコーティングしたような姿。
「アビスシックル……!」
アビスシックルが鎌を持ち上げるのを見て、ヴィンスは慌てて顔を引っ込める。直後、ザクッと不吉な音と共に車体にダメージが入った。
討伐依頼なら絶対に受けないし、出没の危険があるとわかった時点でどんな代償を払うことになったとしても依頼を投げる。元仲間と組んでいた時ですらその方針だった魔獣が……よりにもよって俺一人の時に!
ギリギリのところで竜車から下ろすことの出来た十文字槍の柄を握りしめる。
破砕音は聞こえない、だが奴は……確実に、この竜車の向こうにいる。
どうする、どうするどうする! 逸る心臓を必死に抑えながら、パニックでまともに回らない思考を無理やり回す。
奴の装甲は全て金属に匹敵する硬さだ。俺の槍のようなただの武器は、そう簡単に貫通しない。救いがあるとすれば……その装甲の重さ故、アビスシックルの翅は長距離の飛行には使えないということだろうか。何年か前に崖から突き落として撃退に成功した事例があった筈だが、今俺がいるのは谷底だ。
勝算は……一つだけ、思いつき程度のものがある。腰の鞄に入った小さな布包の感触と、その中身の重さを確かめる。
……このままではジリ貧だ。生き残りたければやるしか無い。
足元の石を蹴り上げて左手でキャッチし、スリングにセットする。遠心力を十分に乗せて、一瞬だけ顔を出して虫目掛けて投げつける。鋼材のような脚はビクともしない。予想通りだ。一息で駆け抜け、次の一撃が飛んでこないうちに、別の岩陰に身を隠す。
スリングに小石をセットし、小さく回転させ、一気に飛び出してアビスシックルがこちらに反応する前に射出、刃が飛んでくる前に次の隠れ場所へ。それをひたすら繰り返す。
姿を晒しかけて――翅を拡げて跳躍してくるアビスシックルに、慌てて攻撃を中断して逃走する。俺のすぐ後ろの地面が鎌鼬で爆ぜた。
――死ぬ。これは死ぬ。奴は俺を……逃げ惑う獲物を逃がす気が全く無い。
ろくな抵抗も出来ない弱い獲物、しかも大きい。攻撃は無視していい、最短で仕留めよう――――。
……そう思わせるのが狙いだ。
ヴィンスが腰の鞄から布包を取り出し、直に触れないようにして中身をスリングにセットする。小さく回転させ、十分な遠心力を乗せたタイミングで飛び出すと同時に射出する。アビスシックルは今まで通り回避しない。今まで通り鎌を振り上げる。今まで通り小石が胴体に当たり――その瞬間、大きく痙攣して動きを止める。
その機を逃さず、ヴィンスは隠れていた岩陰から飛び出す。十文字槍を腰だめに持ち、低い体勢で突貫していく。幾ら奴が頑丈な外殻に守られているとはいえ、全力の突きを無防備に継ぎ目に喰らえばただでは済まない。
咆哮しながら懐に飛び込もうとするヴィンス。その速度も威力も、手に持つ武器も、瀕死のアビスシックルに命の危機を感じさせるには――必死の抵抗をさせるには、十分だった。
上手く動かせなくなった鎌が、ほんの僅かに、しかし確かに魔力を乗せて、振り下ろされる。
ザクッ。
ヴィンスの脚に焼けるような痛みが走る。勢いのままつんのめり、草の上にもんどり打つ。
あんな、感電してろくに動かない体で、斬撃を。
フラつきながら、ぎこちなく、長年使っていなかった水車小屋の初動のように、アビスシックルが動き出す。
獲物は目の前に、しかも手負いの状態で転がっている。ただ一度己の武器を振り下ろせば、これ以上余分な魔力を消費するまでもなく、食事にありつける状態。
……ここまでなのか。
全身に走る痛みを捻じ伏せて這ってでも逃げようとするヴィンスを、絶望と諦めの二つが支配していく。
一生の友人だと信じていた幼馴染達には置いていかれ、ギルド長や他の冒険者達には便利な奴隷としてこき使われ。最後には欲をかきすぎて自滅する。……人生の大逆転なんていう奇跡は起こらずに、誰にも顧みられずに、死ぬ。
鎌を振りかざすアビスシックルの背後に傾いた陽光が射した。鮮やかな光に、一瞬ヴィンスの目が眩んだ。

ギィン!

鉄が鋼にぶち当たる音。そして、その音を聞くことの出来る自らの存在。そして、ヴィンスとアビスシックルの間に立って、陽光を遮る何者か。
ヴィンスは恐る恐る目を開ける。
「……な、」
金色の長い髪が織物のようにひるがえる。
手にしている大鉈のような剣は赤々と燃え、振り下ろされようとした死を二秒前の状態に逆行させていた。
鮮やかで美しくて……まるで、絵画のような一瞬。
「らぁッ!」
低く踏み込んだ女が地を蹴って、アビスシックルの腹の下に潜り込む。蟷螂の振り下ろすもう一本の鎌はその速度についていけず、巨躯が大きく右に傾く。
天高く飛び上がった女が、片手剣を両方とも大上段に振りかぶる。アビスシックルの装甲が剣を、しかも片手剣如きの斬撃を通すはずがない。そんな常識を、分厚い刀身を真っ赤に燃え上がらせた剣は否定する。
轟音。
女と剣が、踏み潰した白錫草の上で動きを止める。やや遅れて、跳ね飛ばされたアビスシックルの首が地面にバウンドしてヴィンスの目の前に転がる。
この女……この女、当たり前のように。
当たり前のことのように……アビスシックルの首を叩き斬った――――!
首を失った大昆虫は、ぴくぴくと痙攣して、やがて自らの死を悟ったように崩れ落ちた。屍の右の脚は、全て関節ですらない位置で切断されていた。
女が振り向き、剣の輝きを同じ色をした双眸がヴィンスの姿を捉える。
……鮮烈な、赫。地獄の門の向こう側のような色に、ヴィンスが一瞬たじろぐ。
天使か悪魔か、この世のものとは思えないような存在感を持った女が、その表情を崩してニッと笑みの形を作った。
「よお、危なかったな」
姿形には似合わないが、その表情には似つかわしい乱暴な口調。
片手に一つずつ引っさげた幅広の剣から赤い光が消える。得物から昆虫の体液を振り払いベルトの固定具に納刀すると、女は自分が助けた冒険者に向き直った。
「お前がヴィンスだな?」
「そうだが……どうして俺の名前を?」
「フローレンスの冒険者ギルドでちょっとな」
「ああ、それでか……あんたも冒険者か?」
「いや? ただの旅人だ」
「……これだけの剣の腕で、ただの旅人か」
倒れ伏したアビスシックルを見る。先程まで圧倒的な死として立ちふさがっていた化け物は、見る影もない。
「動きが妙に鈍ってたし楽勝だったぜ。お前がなんかやったのか?」
「雷石をぶち当てた。結局このザマだけどな」
「へー、便利なものもあるんだな」
旅人を名乗りながら、雷石の存在を知らない。妙な女だが……間違いなく、命の恩人だ。
「アンタが来てくれなかったら本当に死ぬところだった、礼を言う。……名前を聞いてもいいか?」
「レイラだ。家名も何もない、ただのレイラ。お前も竜車も無事そうでよかったぜ」
「アビスシックルは竜種には襲いかからないからな……しかし何故竜のことを気にした?」
「ああ、お前に仕事を頼みたくてな」
「仕事? 仕事なら冒険者ギルドを通して――」
「だったらわざわざ谷底までお前を追いかけてはこない。……ここからルクスルフトまで、俺を送ってほしい」
ルクスルフト。竜車を使っても優に一〇日はかかる距離にある、サンジェミニ王国きっての大都市だ。
剣以外は非常に簡素なレイラの装備を、ヴィンスは上から下まで一通り眺めてから口を開く。
「……言いたいことは色々あるが、金は?」
「手持ちはない。が、宛ならある」
「宛?」
レイラはニッと口角を上げた。
「お前、俺が来なきゃ死んでたよな?」
「……確実にな」
嫌な予感がヴィンスの中で膨れ上がる。
「つまりお前は俺に対して銀貨100枚分の借りがあるってことだよな?」
「待て、どうしてそうなる」
「命一つだぜ? 当たり前だろうが。この礼は命一つ分俺のために働いてもらうってことでチャラにしてやるよ」
「そんな常識があるか!」
「俺はな、別にいいんだぜ?」
普通に地面の上を歩いているた筈が、薄氷の上に乗っていることに気がついてしまったような……そんな空寒さが、ヴィンスを襲う。
「……お前をここでぶっ殺して、竜車だけ奪ってもな」
「な……」
ふざけるな。そう叫ぶには、空気があまりにも妙に冷えすぎていた。
……こいつは本気で言っている。問答無用でそう思わせる空気が、レイラにはあった。
「……俺を殺してしまっていいのか? アンタ、一人で竜車の操縦が出来るようには見えないが」
「適当な奴を探す。まあ若干手間にはなるが、ここでお前に苛つかされるよりはマシだろ」
反論できずにいるヴィンスの鼻先に、鉈のような剣の切っ先が突きつけられる。
「二つに一つだ。俺に救われた命を俺のために貸すか、……俺に救われなかったのと同じ末路を辿るか」
ヴィンスはやっとの思いで切っ先から視線を逸らし、レイラを見上げる。
「……ルクスルフトまででいいんだな?」
「そうだ。竜車の運転手と、道中ちょっとした俺の手伝いをしてくれりゃそれでいい」
「微妙に仕事が増えてる気がするんだが……それなら、生きる方だ」
「よし、決まりだな。行くぞヴィンス」
何事もなかったかのように剣を腰に戻し、レイラはさっさと竜車の方に向かってしまう。
「行くぞって、……いい忘れてたんだが、その竜車は俺のではなくギルドの」
「知るか、んなものかっぱらえ」
「そういう訳にいくか! 弁償金が一体いくらになると――」
「死ぬか生きるかの瀬戸際でよくもまあそんなに騒げるなお前。じゃあ聞くけどよ、その竜車が無くなったら誰が困るってんだよ」
「それは……」
竜車の所有者である老ギルド長、他の使用者である冒険者達。思い浮かんだ顔に浮かぶのは全て、ヴィンスを見下して嘲笑っている表情。
そんな奴らが困る分には……まったくもって、心が痛まない。
「……悪い、馬鹿なことを言った」
「わかりゃいいんだよ」
「金に汚いついでに一ついいか」
「今度はなんだ」
「そのアビスシックルの鎌と翅、根本から折って竜車に一緒に乗せてくれないか。高く売れるんだ」
「ほんとにお前……やってやるからさっさと竜車出せるようにしとけよ」
「あ、ああ」
ヴィンスは槍を杖代わりにして、どうにか立ち上がる。斬られた脚に痛みが走るが、一旦無視する。
竜車は思いの外傷ついていなかったが、念の為車体の点検をする。幸いにして、車輪にも軸にも歪みや傷はない。
「思ったより軽いなこれ」
「もう終わったのか」
「楽勝だ。で、竜車は?」
「大丈夫だ。いつでも出られる」
「ならいい」
ドカドカドカッとレイラが荷台にアビスシックルのパーツを投げ出す。欲を言えばもう少し丁寧に扱ってほしいが……いや、これ以上は何も言うまい。
「レイラ。一泊野宿して、取り敢えずダールトンの町に向かう、ってことでいいか?」
「おう、よろしく」
そういうや否や、レイラが荷台にひらりと飛び乗って、白錫草の山の上に仰向けになる。
あんまりの尊大さに心の中でだけため息をついて、ヴィンスは勝手知ったる御者台に座る。
脚には軽く包帯を巻く。化膿さえしなければ、次の町で治してもらえるだろう。
「そういえば聞いてなかったんだが、俺は何の手伝いをすればいいんだ」
「あ? あー……」
ヴィンスは手綱を取り、軽く振り下ろす。地竜がのしのしと歩みを進め、竜車がゆっくりと動き出す。
レイラは少し言いづらそうに躊躇うと、やがてその一言を発した。
「簡単に言うなら、人殺しだ」