今日も今日とて暴食日和

「どうしよう……あいつら絶対殺す……でもどうしよう」
居酒屋の入口で、俺はひたすらに途方に暮れていた。
「店の外で休んでおいで」と俺を宥める店長の顔色は、いつになく悪かった。そりゃそうだろう、ウチはでっかいチェーン店に比べて零細もいいところの居酒屋。文字通り、吹けば飛ぶ。
客集めの為に大手のネット予約サイトを使い始めたのがダメだったんだろうか。いや、でも客足は確実に伸びてたはずで……。
どうしよう。どうすれば。
――その時、視界の端に見知った姿が見えた。
店によく来る外国人。ベルゼビュートさんだ。
十人が十人振り返るイケメンだが、イメージに反してとにかくよく食べる。三人前、四人前といった量でも平気で食べる。
店長渾身の大盛りメニューも、一瞬で駆逐された。
救世主。
その言葉が頭をちらついた時には、俺は走り出していた。

玉こんにゃくというものは初めて食べたが、中々どうして悪くない。
夕暮れ時、学生が多く行き交う道を、ベルゼビュートは串団子のような外見のそれを片手に歩いていた。
すでに上から二つ、そして左手の四本は平らげた後である。
最後の一つに取り掛かろうとした時、背中に「待って、行かないで!」と、声がかかった。
「救世しゅ」
――――その言葉を発しようとした男の眼球に突き刺す寸前、文字通りの紙一重で、持っていた串の先端を停止させる。
束の間音速を超えた玉こんにゃくが、ふるふると揺れていた。
「……ああ、救世主とはそちらの意味でしたか。早とちりで眼球を串刺しにして抉るところでした」
「え……は……?」
居酒屋の前掛けをつけた青年、タクヤは事態を理解していない。
『ベルゼビュートさん』『十メートルは先にいた』『目の前にいる』『救世主』『串』『目の前に何かある』『えぐる?』……視覚情報、聴覚情報、記憶がバラバラのまま結びついていない。往来の目撃者も、一瞬の凶行未遂に理解が追いつかずに混乱している。
串を引き下げ、周囲の人間の記憶を霧散させる。
玉こんにゃくの最後の一つを飲み込む頃には、全員の記憶から一連の異常が消し去られていた。
「それで、タクヤ。私に何の御用です?」
「え?あ、ああ……そう!助けてほしいんです!ベルゼビュートさんに!」
「私に?」
「実は……」
タクヤの話はこうだった。
今日の開店直後に飲み会を予約していた団体が、予約の時間を過ぎてからキャンセルの連絡を入れてきた。キャンセル料が発生することを伝えたところ、電話を切られ、以後着信拒否。
「開店直後からの予約だっていうから俺らだって張り切って用意したのに、あいつら許せないっす!
……でも、折角用意した料理は全部無駄だし、連絡つかないし、キャンセル料踏み倒されて大赤字になりそうで……」
「通りがかった私なら代わりに食べてくれそうだし、赤字を補填してくれるのではないか、と」
「いやホント頼みますよ!ベルゼビュートさん以外に頼れるきゅ」
タクヤが言葉を詰まらせる。
「……人も見つかりそうにないんで!安くしておきますから!」
「どの程度の量なんですか?」
「じゅ、十八人分なんですけど……何人前までいけます?全部いっちゃいます?」
十八人前の料理。大体の量を想像する。
「引き受けましょう」
「えっ!?……いや、半分くらい冗談だったんですけど、えっマジっすか?!」
「私の方は本気ですが」
「マジなら全然嬉しいしホント助かるっすけど……割り引いても人数分高くなりますよ!?」
「構いません」
「……ならいいっす!もう開店してるんで、どうぞこちらへ!」

三つのテーブルを連結した席にベルゼビュートさんを通す。
テーブルの上には四つの鍋やサラダ、刺し身なんかが並んでいるが、勿論これで終わりではない。卵焼き、焼き鳥、その他もろもろ料理はこれからも運ばれてくる。
……ベルゼビュートさんはああ言っていたけど――ものっすごい量を食べるのも知ってるけど――いくらなんでも十八人前なんていう量が人間の胃に入るわけがない。
厨房から次の料理を受取る。万が一食べられなかったら、という店長の配慮で四人前の量に抑えられているけれども、これだけでもずっしりと重い。
俺ならこれで精一杯、というか多分飽きるだろう。
ベルゼビュートさんはどれくらい食べ終わっているだろうか。団体客だってサラダも刺し身も半分も減っていない頃だ、いくらベルゼビュートさんでも二人前、三人前で限界に違いない。
様子を見て、何卓かは他のお客さんを通そう。それがいい。というかそれが普通だ。
「お待たせし……」
――――テーブルの上は空っぽだった。
十八人前並んでいた筈のサラダの大鉢も、刺し身の大皿も、ツマもパセリも残らず消えている。
「マジかよ……」
「引き受けると言ったでしょう」
ベルゼビュートさんは三つ目の鍋のコンロのスイッチをカチッカチッと捻っている。
「いや、とはいえっすよ?!」
「店長にも『全部食べるのでご心配なく』と伝えてください。……それと、ガスが切れたようなので交換をお願いします」
「……わっかりました!少々お待ち下さい!」
急いで厨房に引き返す。
「店長、ベルゼビュートさんマジで食う気っぽいんで全部盛っちゃってください!」

二つ目の鍋が底をついた。火を止め、次の鍋の前に移動する。
「ベルゼビュートさん、シメの麺この辺に置いてていいっすか?」
「入れてしまっても構いませんが」
「今から入れたら流石に伸びちゃうと思うんすよ」
「そうですか、ならそのように」
「わかりました!……あ、お冷なくなってますね、持ってくるっす!」
忙しなく店内を駆けていくタクヤから目を離し、取り皿によそった鍋の具材を口に運ぶ。
最初は好奇の目でこちらに注目していた店内の客も、今はチラチラと進み具合を確認する程度。近くの席で騒いでいるのは、料理がどれくらい消えるかを賭けていた連中だ。ここまで行くとはだれも予想していなかったらしく、賭けは無効。今は何やら別の酒の肴を見つけたらしい。
悪魔が店の中にいるというのに、随分と平和だ。いや、暇を持て余してこんなことに付き合っている時点で。
(微温い)
鍋底で熱されていた豆腐を箸で捕まえ、そのまま口に運ぶ。それで三つ目の鍋も空になった。
一番最初の鍋にスープと麺を全部放り込み、最後の鍋に取り掛かろうとしたところで電話が鳴った。
リツカの番号だ。
「もしもし?」
『ベルゼビュート、今どこ?』
「商店街ですが。どうかしましたか?」
『あ、商店街?なら丁度いいや、紅しょうが切れてるから買ってきて』
「紅生姜、ですか」
『今日お好み焼作るから。何してるか知らないけど、あんまり遅くならない内に帰ってきてよね』
「それはそれは。わかりました、他に買うものがあればまた連絡してください」
電話が切れる。
現在時刻は六時。夕飯まで一時間。
「あまり時間がありませんね」
煮だった鍋を傾け、そのまま口をつける。具もスープも特に区別せずに飲み込み、飲み干す。
中身の重さを失った鍋をコンロに戻し、麺の入った鍋に取り掛かる。
「あの……いや、食べ方なんて自由だと思うんすけど、熱くないんすか今の」
「何がです?」
「……いや、ベルゼビュートさんがいいなら別にいいっす……」

「……ちょうどのお預かりですね、これレシートっす!」
「ありがとうございます。元は取れましたか?」
「……多分!あとはドタキャン野郎をどうにか探し出すだけっす!」
「宛ては?」
「ないっすけど……地道にやるしかないっすね!」
「そうですか」
ベルゼビュートさんが少し笑った。
その目がレジの後ろの壁を見る。
「六時半……夕飯には間に合いそうですね」
夕飯。
「……夕飯!?」
「ええ。今夜はお好み焼きです」
「いや、だって……えぇ……?え、流石に作る専っすよね?」
「食べますが」
嘘だろ。
背景がくらりと歪む。
……まだ食えるのか。というかまだ食う気なのか。
「十八人前の料理、中々貴重な体験でした。……買い物を頼まれているので、私はこれで」
「…………またどうぞー」
呆然としたまま彼の後ろ姿を見送る。
……物凄く助けてもらったことには、間違いない。
けれどもコレ以外の感想は、残念ながら思いつきそうになかった。
「…………………………化け物だ」